障害者だって恋愛したい!とか言うけれど。障害者の恋愛って何が問題なの?

先日、障害者の恋愛に関する取材を受けました。
 

障害者が恋愛をするにあたって、障害が障壁になるのかどうか、という問いから取材は始まりましたが、誰かを好きになることなんて元々は自由な話で、そこに障害の有無なんて関係ないはず。むしろ「あなたの切断した右足ってなんだかセクシーね」なんて言ってくれる女性がいると嬉しい話です。
 

年下好きやら枯れ専やらみたいな感覚で、障害がかえってモテる要素になる。障害が強みになるだとか個性だとかいうひとには、ぜひこの価値観を広げていただきたいものだなと、取材の時間を終えて思い至るようになりました。
 

恋人として選ばれるときに障害は障壁になるかもしれないけれど、恋愛することには何の障壁もないのではないか。これが現時点での回答です。
 


 

「障害者の◯◯」というテーマが古い?!

 

障害者だって恋愛したい!というメッセージを掲げたイベントやSNS上での投稿を時折見かけます。その言葉の背景を察する気持ちはありますが、正直なところ「障害者だって」という言葉を取り下げてほしいという気持ちを抱くことがほとんどです。同じ障害者として。
 

障害の種類や程度、性別やセクシャリティ、どのような環境で暮らしているか、どのような経緯で障害を負ったかといった違いによって、コミュニケーション上のトラブル、出会いのきっかけのなさ、恋愛以前の日常生活を送ることの難しさなど、恋愛への障壁が多岐に渡ることは間違いありません。
 

しかし、障害があるから恋愛ができないのだとすれば、結婚していたり、子どもがいたり、パートナーがいたり、合コンやナンパでの戦績が抜群に良かったりする障害者の友人たちをどのように捉えればいいのでしょうか。
 

これはけっして、上から目線の物言いではありません。問題設定が違うのではないかということです。「障害者の恋愛」が問題なのではなく「恋愛しづらい障害者にはどんな要素や原因があるのか」が問題なのです。これは、恋愛に限らず「障害者の◯◯」的な問題のほとんどに当てはまることです。
 

障害者それぞれが抱える問題も多様化、複雑化しています。「障害者の◯◯」といったメッセージはたしかに分かりやすく、訴求しやすいですが、自分の困りごとが、いかにも全体の困りごとのように表現するのは、同じカテゴリ内の他者が不利益を被ったり、反感を買ったりするおそれがあります。
 

雑に言ってしまえば、困っているひとにとっては「障害」というテーマは重要事項ですが、困っていないひとにとっては「障害」なんてホクロのひとつみたいなもの。そもそも一括りで考えることに無理があるのです。
 

障害がマイナス要因だというならば。

 

恋愛とはなにか、というのは哲学的な問いになってしまいそうですが、単純に考えれば、誰かを好きになることでしょう。
 

好きになった相手と両思いになりたいとか、独り占めしたいとか、体に触れたいとか。書き連ねるだけでなんだか恥ずかしくなってきますが、そういった気持ちを抱くことが恋愛だとしたら、障害は障壁になるのでしょうか。
 


 

誰かを好きになることに障害は関係ありません。問題はその先です。
 

もし、意中の相手と付き合いたいと思ったならば、自分の気持ちだけではどうしようもなく、相手から選ばれる必要が生まれますが、このとき、障害が障壁になることは十分にあり得ます。
 

しかし、発想の転換で、障害を障壁だ、マイナス要因だと考えるのであれば、それを補うに余りあるプラス要因を作ればいいだけの話ではないでしょうか。
 

話が面白いのか、頭がいいのか、相手が楽しむような時間を演出できるのか、どんな仕事をして、どれくらいのお金を稼いでいるのか。婚活中の女性が男性を選ぶ基準みたいな羅列になっていますが「障害があると生活が大変なんだよね」オーラがにじみ出ているひとが、誰かから選ばれるとは考えづらいものです。
 

一緒の時間を過ごすだけで楽しくなる、なんだかキュンとする仕草がある、料理がうまい、気がきく。自分の好みのタイプを並べている感がありますが、障害があろうとなかろうと、好きになるきっかけがなければ、好きにはなりません。
 

自分のことで精一杯の状態では、なかなか相手のことを考えることはできません。恋愛においては、障害が障壁になるというより、自身の障害受容度が障壁になるといえるのではないでしょうか。
 

「障害なんて関係ない」と言い切れるひとほど、障害受容度は高く、障害をマイナス要因だなんて考えていません。これはハートの強さなどではなく、障害に対する解釈や考え方、そしていい意味で甘やかしてくれない周囲の人間関係が影響しています。
 


 

恋愛がしたいのか?それともセックスがしたいのか?

 

こういったテーマで発信すると、麻痺や寝たきり状態の方や知的障害を抱える方のご家族からなど、様々な方面からご意見をいただくことがあります。例えば、こんな体の自分を選んでくれるわけがない、セックスができない、相手に迷惑をかけたらどうすればいいのか、ストーカーと判断されたことがあるがこれは障害が原因なのか、そんなご意見です。
 

個々の障害の話になったら「障害者の恋愛」といった全体論で語る意味なんてやっぱりないじゃんと思う心持ちは置いておいて、ひとつひとつの意見を辿ると、恋愛の定義や悩み、ステージがバラバラなことに気づきます。
 

選んでくれるかどうかは「付き合う」でしょうし、迷惑をかけるという懸念は「駆け引き」や「普段のやりとり」に当たるかもしれません。障害者という括りだけでなく、恋愛という括りにも、具体性や細分化が必要となります。
 

付き合いたいのか、セックスがしたいのか、結婚がしたいのか、子どもがほしいのか。セックス、性、結婚、出産、育児、家族など様々なテーマとの関連性が浮かび、恋愛の問題だと一言では片付けられなくなります。
 

物理的にセックスが無理、遺伝が怖いから生まれてくる子どもが不安といったテーマも「障害者の恋愛」という広い括りで考えられていることがありますし「障害者の性」などのテーマの中に恋愛の話が含まれていることもあります。
 

大きいテーマでぐるぐる考え、社会への改善提案を模索するより、自分の抱えている問題を具体化・明文化して、自分自身の困りごととして考えるほうが解決しやすいかもしれません。自分の問題が解決するだけで十分なのではないでしょうか。
 

障害の有無に関わらず、自分の悩みを素直に打ち明けられるひとほど、周囲との人間関係がうまくいくような印象を覚えます。自分自身の悩みや不安をさらけだすことも、いい結果につながるのではないでしょうか。
 


 

平等ではなく、公平に考えよう。

 

誰かを好きになることは自由ですが、相手に選ばれるかどうかは自分の意思で決められるものではありません。相手を思った行動や振る舞いを重ねても、叶わないことだってあります。その中で、障害が理由になることもあるでしょうが、障害がすべての元凶だとも言い切れません。そして、チャンスが一度きりというわけでもありません。
 

すべての障害者を対象にするかのような平等的な視点を謳うことはたしかに大切です。しかし、恋愛のように、選ばれる必然性があるものは、平等ではなく、公平な視点を持てるかどうかです。どれだけの自助努力を行い、結果が出るところまで歩んできたのか。その過程を評価するのは、実は平等ではなく、公平の概念のほうが似合うのではないでしょうか。
 

障害者の恋愛を考えることが、平等な社会と公平な社会の違いを考えることにつながるのならば、「障害者の◯◯」と一括りに考えてみるのも悪くないのかもしれません。
 

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この記事を書いた人

佐々木 一成

1985年福岡市生まれ。生まれつき両足と右手に障害がある。障害者でありながら、健常者の世界でずっと生きてきた経験を生かし、「健常者の世界と障害者の世界を翻訳する」ことがミッション。過去は水泳でパラリンピックを目指し、今はシッティングバレーで目指している。障害者目線からの障害者雇用支援、障害者アスリート目線からの障害者スポーツ広報活動に力を入れるなど、当事者を意識した活動を行っている。2013年3月、Plus-handicapを立ち上げ、精力的に取材を行うなど、生きづらさの研究に余念がない。