ひとりで悩みを抱え込むのは嫌だけど、当事者会は行きづらいってなぜだろう。

発達障害の自助会、アルコール依存症の会、LGBTの集い、引きこもりの人向けセミナー…。興味はあっても「なんか、そういうところは行きづらいな」と気が引けてしまうのは私だけでしょうか?
 

たしかに困っていることは事実で、自分が感じていることを共有できる相手や、所属できるコミュニティみたいなものは欲しい。
 

ただ、あまりに真正面から言われると精神的にキツイというか、抵抗感があるというか、「会う前からそんな風に決めつけないでくれる?」とカチンと来るというか…。めんどくさいヤツでごめんなさい。
 

きっと、私は当事者会が合っていなかったのでしょう。とはいえ、困っている人の中には、私みたいな人がけっこうな数いるんじゃないかなと思います。
 

当事者会
 

私は、発達障害、精神疾患、家族問題、仕事と、ありとあらゆる問題を抱えてきました。そして、自分の人生を実験台にして「どうやったら、生きづらさを減らせるだろうか?」ということをたくさん試してきました。
 

私にとって、特に効果が大きかったのは「本を読むこと」と「文章を書くこと」です。本を読んで仕入れた知恵を、自分の人生で試してみる。そして、自分の経験について書くことで、次の人の役に立っているつもりでした。
 

そんな中、ふと、気づきました。
 

「あれ?私の書いた文章って、生きづらい人たちにあまり届いてないんじゃない?」
 

ネットの文章で情報を届けられる相手は、意外なほどに限定されます。大前提としてネット環境が整っている必要があり、その上で、自分の困りごとに対して自覚があること、たくさんある情報の中から探し当てられること、文章を読むための読解力があることの3つが必要です。
 

ん?この条件がすべてそろっているって、わりと恵まれた環境にある人や、比較的能力の高い人じゃない?
 

生きづらさを感じている人たちの多くは「何が原因で自分は困っているのか」の自覚すらできていなかったり、探したくてもピンポイントで欲しい情報に辿り着けなかったり、文章を読んだとしても理解しきれなかったり。
 

さらには、本当に心身の悪いときに「文章を読む」のはけっこう苦痛な作業で、私自身も精神的に調子が悪かった時期は、目で文字を追っても頭の中に入ってこなくて、文字の本が読めなくなりました。文章を読むには、時間と心の余裕が必要なのかもしれません。
 

順を追って考えていくと「WEB上で発信する文章は、生きづらい人に届きにくいのかもしれない」という気になってきました。
 

当事者会
 

「文章で届かないならば、自分がもらったものを次の人へ渡すためにはどうしたらいいのか」と考えたときに思いついたのが読書会。「生きづらさを減らすきっかけづくり」として、昨年からスタートしました。
 

名前は「神保町よりみち読書会」にしています。好きなことや大切にしている価値観を主役にしたいと思ったので、困りごとや生きづらさのようなキーワードは前面に出していません。
 

悩みごとについて共有できなくても、心が軽くなることはあります。自分の好きなことの話をしたら少しだけハッピーな気持ちになった、趣味の合う人に出会えて嬉しい、他の人のおすすめを試してみたら新しく好きなものが増えた、そんな些細なことから、生きづらさは和らいでいくのかもしれません。
 

私は、つらいときに心の支えになってくれるのは、好きな人やものや楽しかった思い出だと思っています。
 

毎回テーマを設けていますが、どの本を持ってきてどんな話をするかは、参加者の方に任せています。自分の話をしたい人はしてもいいですし、気乗りしないのであれば本の話だけをすればよく、どこまで自己開示するかは、自分次第です。
 

ちなみに「参加者の自由度が高いこと」はいい面だけではありません。何を発表するか決めることが苦手な人は、ちょっとした苦痛かもしれません。しゃべりたがりな人が長くしゃべり、引っ込み思案な人は黙ってしまうこともあります。
 

主催する側としても、何の話が出てくるのか予想がつかないのは面白い反面、不安要素でもあります。いきなり重たい話を始める人がいるかもしれませんし、こちらもどう切り返したらいいのかわからないときもあります。それでも「どんな話が出てきても、なるべく安全な場にしたい」ということだけは気をつけて運営しています。
 

「生きづらさを減らす」には、いろいろな方法があります。ネットの文章を読んで救われる人、自助会が心の支えになる人、私みたいな自助会だと気が引ける人もいます。私は自分に合うものを探していったら、読書会に辿り着いただけです。
 

どんな方法でも構わないのです。周りに迷惑をかけることと、後で苦労が倍になって返ってくるようなことは「できればやめておいたら?」と思いますが、それだって強制はできません。
 

極論を言ってしまえば「長い目で見たときに生きづらさが減る」のであれば、手段は何でもいいのではないでしょうか。「このやり方が正しい!他は間違っている!」ということは、ありません。自分の信じていることがあるとしても、他のやり方を否定する必要なんて無いんですから。
 

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この記事を書いた人

森本 しおり

1988年生まれ。「何事も一生懸命」なADHD当事者ライター。
幼い頃から周りになかなか溶け込めず、違和感を持ち続ける。何とか大学までは卒業できたものの、就職後1年でパニック障害を発症し、退職。障害福祉の仕事をしていた27歳のときに「大人の発達障害」当事者であることが判明。以降、少しずつ自分とうまく付き合うコツをつかんでいる。
自身の経験から「道に迷う人に、選択肢を提示するような記事を書きたい」とライター業務を始める。