「障害者」ではなく「障害を持つひと」に変わった。エグモントで学んだこと。奥山修平さんインタビュー。デンマーク留学記⑯

この連載は「ワカラナイケドビョウキ」という不思議な病気になり障害をもった私が、ノーマライゼーション発祥の国デンマークに留学する1年間の放浪記です。デンマークでゴロンゴロンでんぐり返しをしながら「障害ってなんだろう」と考えます。
 


 

青春真っ盛りだった頃、体育祭で騎馬戦をした日、首から下が動かなくなった。身体を鎖でぐるぐる巻きにされて、水に沈まされる夢をみて、眠れない日もあった。だけど、今はそんな日々も思い出すのに時間がかかる。
 

奥山修平さんは穏やかな男性です。173㎝の身長を車椅子にのせ、春のポカポカした陽気とマイナスイオンを常に身体中の細胞から発しています。デンマークの学生に「SHUHEI!」と声を掛けられ、アクティブにスポーツの授業を取り、ムードメーカーのように皆を和ませてくれたかと思えば、普段はただ何も言わずに隣にいさせてくれて、一緒にいると猫のような気分になる。
 

そんなフワフワした空気の日曜日、今年の一月からエグモントホイスコーレンに留学している奥山修平さんに、障害について、そしてデンマークと日本についてお話を伺いました。
 


 

ー日本での修平さんについて聞かせてください。
 

修平さん:いま34歳で、地元の函館ではウェブディレクターをしています。2003年、20歳の時に頸髄損傷になってから14年間、車椅子ユーザーです。
 

ー障害を負ったきっかけは、何だったんですか?
 

修平さん:当時通っていた工業高等専門学校での恒例行事「騎馬戦」でした。相手の騎馬の騎手を地面に落としたら勝ちという、男子が多い高専ならではの名物行事で、僕は騎馬の土台として騎手を支えていました。そこで相手の騎手が僕の上に落ちてきてしまって、グラウンドで数秒意識を失った後に目を開けたら首から下の感覚がなくなっていました。
 

ーそのときのことって、詳しく覚えていますか?
 

修平さん:保健室に担ぎ込まれて、養護教諭の先生が僕の足を押しながら「これはわかる?」「ここの感覚は?」と聞いてきました。先生には「脊髄損傷」という言葉がもう浮かんでいたんだと思います。僕は首から下の感覚がなくなっていて、先生が足を触っていることに全く気付きませんでした。その後、救急車で病院に運ばれ、すぐに「頸髄損傷」という診断を受けました。
 

母が個室に通されて、お医者さんから話を聞いているんだけど、個室っていっても僕がいる部屋とカーテン一枚でしか遮られてなくて。全部丸聞こえだったんです(苦笑)。
 

「息子さんは、首から下が動かせない。一生車椅子。寝たきりか、電動車椅子での生活になると思う」という言葉を聞きました。そのときちょうど『リアル』という車椅子バスケットの漫画を読んでいた時期で、あぁ、これかと思いました。でも手術をすれば治るんじゃないかとか、まだ少し希望は持っていたように思います。すぐに打ち砕かれちゃったけど。
 

あの時は…「終わった感」がすごかったです。人生終わった、と思いました。一生寝たきりというのが頭に残ったのを覚えています。6月25日に事故にあって、7月10日が20歳の誕生日。…最悪、だと思いました。
 


 

ーリハビリを開始するまでの話って聞かせてもらえますか?
 

修平さん:初めは首から下が動かせなかったのですが、数日経った頃に、肩と肘、手首は動かせることが分かりました。
 

リハビリはベッドの上で上半身を起こすことから始めました。30度以上の角度で頭を起こすと起立性低血圧になってしまうので、少しずつ電動ベッドを起こして、横になって、起こして、横になって。普通の車椅子に乗れるようになるまで3週間近くかかりました。
 

毎日友人が病院に来てくれて、友人がいてくれることが嬉しかったです。その後は段階的にできることが増え、障害を受け入れていきました。そして、入院しながら母と一緒に学校に通うようになりました。
 

ー退院後の生活について教えてください。
 

修平さん:高専をなんとか卒業し、高専の専攻科に進み学士の学位を得て、さらに大学院に進学しました。当時は自立度が低く、感覚がなくなってしまっていたのでトイレもうまく出来なくて。母がいないと外出できず、学校に通うにも母の付き添いが必要でした。
 

でも、高専専攻科の2年目が終わるころ、母が末期の癌を患ってることが分かったんです。相当心労を掛けていたんだと思います。僕のせいだと感じ、自分自身を責めたこともありました。母は僕が大学院に進学することを応援してくれ、抗がん剤治療を受けながら僕の介助を家と学校で毎日してくれていました。
 

母にもしものことがあったときのことを母も含む家族みんなで考えて、僕の自立度を少しでも向上させるために大学院を休学し、1年間他県のリハビリセンターに入所しました。そこでトイレのコントロール、更衣、入浴、ベッドと車椅子間の移乗、車の運転も身につけました。そのおかげで、環境が整えば、かなりのことが自分でできるようになりました。母は僕ができることが一つ増えるたびにとても喜んでくれました。
 

ーご自身の介護について自治体には何か相談をしましたか?
 

修平さん:母が闘病中、僕のための通いのヘルパーさんの頻度を増やしてもらうように、市役所に頼みました。闘病もしながら息子の介護もする母の負担を減らしたかったんです。でも、僕が家族と同居しているのであれば家族が介護をするべきだといわれ、話は通りませんでした。もっと母の病状が悪くなり介護ができない程になったら、検討をするということで。僕たち家族は、母の病状がこれ以上悪くならないように頼んでいたんですが。
 

ー日本の家族介護の現状ですよね。私が修平さんからお話を伺って驚いたのは補助金の額です。ご自宅を改築したときの補助金にはどう感じましたか?
 

修平さん:2年ほどの闘病の末、母が亡くなり、僕は母の最期を看取った後、施設に戻って自立訓練を終え、自宅での生活を父と二人で送るために実家を改築しました。僕の部屋にシャワーやミニキッチンを取り付けたり、トイレの便器を特殊便器にしたり、自立生活のために車が必要になったのでカーポートや玄関、昇降機をつけたり、改築には総額600万円かかりました。そのうち自治体から出た補助金は約30万円です。僕は障害を負った時に受け取った保険金によってその費用をまかなえましたが、それがなければ改築はできず、父と二人で自宅で生活することは難しかったと思います。
 

僕が施設に入って重度障害者向けの介護サービスを受けるより、自宅で自立した生活をするほうが長いスパンで考えると国の負担は少なくなるはずです。なので、自立生活のためにかかる初期費用の補助金はもっと多くしてもらいたいですね。
 

リフォーム以外では、日本の福祉機器の補助金は補装具費として支給され、利用者負担は基本購入品の1割の金額。もちろん上限金額があります。自走の車椅子の上限金額は15万円ほど。電動車椅子は簡易型で30万円ほどだったと思います。補助金額内でも購入できる製品はありますが、限られていますし、病院で使用されるような簡易なものが多く、日常生活が快適に過ごせるとはいえません。僕の自走式車椅子は30万円以上かかっているので、そのうち15万円は自己負担です。
 

こちらの学校でよく目にする、デンマーク人の障害者が支給されている電動車椅子は100万円以上するものばかりなので、留学当初とても驚きました。僕と同じ障害を持つエグモント学生のバーバラさんは電動アシスト付き自走車椅子、電動車椅子、ハンドサイクル、車椅子ごと乗り込める大型自家用車を所有していて、日本の感覚だと相当なお金持ちのお嬢さま。だけど、バーバラさんは普通の家庭のお嬢さんでした。
 

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デンマークでは生活に必要と認められれば、多額の補助金が出ます。100万円以上する車椅子に乗り、会話が困難な学生は、使いやすいようにカスタマイズされた最新のタブレットで会話をすることができます。日本よりも一人一人に合わせた支援が適切に為されている印象を受けます。
 

修平さんの車椅子も、デンマーク人の学生の車椅子も試乗させてもらいましたが、車輪の軽さや乗り心地ではデンマーク人の学生が使用している車椅子のほうが快適に感じました。車椅子は身体の一部、生活の基盤ですから、そのスムーズさは日常生活に大きく影響すると思います。
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車いすに乗ってても普通にキャンプを楽しんじゃう。

 

ーその後、どういったきっかけでエグモントホイスコーレンを知ったんですか?
 

修平さん:大学院生のとき、エグモントホイスコーレンに在学していた方のブログを見たのがきっかけです。大学院ではなかなか友達ができなくて、建物がバリアフリーであっても障害者の受け入れに積極的な校風ではありませんでした。なので障害者と健常者が共に暮らし、共に学ぶ学校っていうのが魅力的で惹かれました。
 

26歳で大学院卒業後、エグモントのことは頭の片隅にはあったけど、就職もでき、私生活が充実していたのであまり思い出すことはありませんでした。欠勤することもなく仕事に行くことができ、納得できる仕事ができるようになり、お金も貯まった頃に、エグモントのことをふと思い出したんです。そこで留学することを決めました。そして、会社が本当に理解のある会社で、休職扱いで1年間の留学を許可していただきました。本当に心から感謝しています。
 

ー最初にエグモントに来た時の印象はどうでしたか?
 

修平さん:日本に障害のある友人も多くいるけれど、日本の障害者とデンマークの障害者の雰囲気は全然違うと感じました。例えば、日本にいる脳性麻痺の友人は、養護学校を出てすぐにデイサービスに入り、今は施設に入所しています。しっかり話を聞いていると、彼の人柄やずばぬけた頭の良さがわかるんだけど、施設の職員さんは忙しすぎて一人の入所者にそこまで腰を据えて話を聞くことはできず、彼の能力は発揮する場がありませんでした。いつもよだれが垂れていて、あまり身だしなみもしっかりしてるとは言えませんでした。
 

それに比べて、彼と同じような障害を持つデンマーク人の学生たちは、障害のない友達にたくさん囲まれていて、なんだか楽しそうに感じます。そして、彼と同じレベルの障害を持つ先生がエグモントにいて、彼はパーソナルアシスタント制度を利用してヘルパーに通訳してもらいながら、我々日本人にデンマーク福祉の授業をしてくれています。
 

ー修平さんがエグモントで一番挑戦したことってなんですか?
 

修平さん:9月に授業でカヌー旅行に行ったんです。二泊三日でテントに泊まりました。もうとにかくクレイジー!到着するまで行先はわかんないし、外は寒いし、寝袋は褥瘡になるんじゃないかとヒヤヒヤするし、基本的にトイレは外でしてヘルプの学生に尿瓶を洗ってもらう。
 

日中のアクティビティでカヌーをしたんだけど、僕だけじゃなく自閉症の学生やじっと座っていられない学生も川の上流から下流まで2時間近く漕ぎ続けなきゃいけないヘビーなものでした。転覆しないって先生が言ってたのに、八艘中三艘が転覆しました。
 

授業では、転覆をした際の訓練も受けているので大丈夫なんだけど、ドキドキでした(笑)。
 

以前は、発達障害があり座っているのが難しい学生が、カヌーの上で立ち上がっちゃって船が転覆したこともあるらしいです。僕のカヌーも何度かクラッシュしました。そんなチャレンジがすっごい楽しかった!
 


 

ーアクティビティの充実度など、日本との違いを感じますか?
 

修平さん:障害を持っていても、アウトドアに挑戦できるって知ったのはエグモントに来てからだけど、それが日本のせいだったとは思いません。自分のせいだった気がします。自分にはアウトドアはできないって決めつけてたけど、多分日本でも山登りとかカヌーとかやってる障害者はたくさんいるんだと思います。自分がやってなかったから知らないだけで(苦笑)。
 

エグモントで学んだことを、函館でも実践したいし、函館でも絶対賛同してくれる人はいそうな気がします。不安より「やろうと思えばなんでもできる」っていう気持ちのほうが強くなりました。
 

ーエグモントに来て、自分が変わったなって思うことはありますか?
 

修平さん:以前は自分のことを「障害者」だと思っていました。でも今は「障害を持つ人」でしかないと思っています。僕には僕のパーソナリティーがあって、その一つに障害がくっついているだけという意識が強くなりました。
 

ー障害者としてデンマークで暮らすということ、日本で暮らすということについてどう思いますか?
 

修平さん:(福祉制度に関しては)財源がちがうからね、そこはしょうがないなあと思います(苦笑)。でも、そう言えるのは仕事もあって応援してくれる家族もいて経済的に充実しているから。そうではない状況にいる日本の障害者や、もっと重度の障害者は大変だと思う。もうちょっと支援があればなと思います。
 

ー日本に帰ってからの夢はなんですか?
 

修平さん:わかさぎ釣りをしてみたいです!今までは寒そうだから誘われても断ってました。でも、今はめっちゃしたい!初めて海外に来て、イギリスやドイツなど友達との旅行にも挑戦して、これからは家族で海外旅行もしたいな!って思いました。
 

ワカサギ釣りも、海外旅行も準備さえちゃんとすれば大丈夫だってわかった。結婚はもちろんずっと心の中にある目標。仕事も、ウェブサイトの開発を主にやっているけどこれから障害者・高齢者分野の新しいウェブサービスを提供できたらなと考えています。例えば、自分史を作る支援ツールなど。自分史を書いたら自分のことをもっと知れる。僕は人生を少しだけ振り返ってみて、ケガのことはもう挽回してる気がしたんです。ケガしてなかったら、障害を持ってなかったら、もっと普通の、少し退屈な人生を歩んでいた気がするから。
 

エグモントはゴールではないって思ってるんです。ここで学んだことを使って、函館で生活して実践してみる。アクティビティとか旅行以外に、日常生活でも。
 

デンマーク人のようにリラックスした環境を会社でもつくりたいし、今までは照れくさくてできなかったけど、父とももっと一緒に時間を過ごしたいです。
 


 

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インタビュー中、「ケガをした当時のことはあんまり思い出せないんだよね」と言いながら、一生懸命記憶を絞り出してくれました。ケガをした時のことは、忘れたほうがいい防衛本能のようなものかもしれない、と修平さんはいうけれど、私から見たら積み重ねた日々がしっかりと過去の記憶を抱きしめているように見えます。
 

「日本とデンマークの比較はもうしない。日本に足りないものではなく、僕に足りなかったものに気付いたから」とほほ笑む修平さんの眼差しからは、キンと背筋が伸びる北欧の空気と穏やかな日差しが流れていました。
 

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この記事を書いた人

Namiko Takahashi