先日、地域の障害者の集まりに参加してきました。身体の方も精神の方もいて、断定はできなかったのですが、おそらく軽度の知的障害の方もいて、知的障害のお子さんを持つお母様も数人。学生さんから米寿を迎えた方まで集まり、バラエティ豊かな場で大変面白かったのですが、印象的だったことのひとつに、僕が「免疫機能障害です」とお伝えした相手が全員「それって何ですか?」と言ってきたことでした。
障害の種類はたくさんありますし、もちろん障害者がすべての障害を知っているなんてことはまずありません。ただ、「多種多様な障害を持つ人の集まりにたびたび参加する人」レベルでも免疫機能障害者は“レアもの”なんだなと再認識しました。逆に免疫機能障害者がこのような集まりに出向くことがほとんどないため、認知されていないということもありそうです。
HIV陽性者の場合、高額な薬が必要なため、一般的には更生医療を利用する必要があります。その条件として障害者手帳を取得していることもあって、実は感染がわかっても薬を飲むことにするまでは、他の障害との重複がなければ障害者ではありません。僕も感染を告知されたあと障害者ではない期間が1年以上ありました。
障害者手帳をとらずに、高額医療に対する補助だけでどうにかするという場合もあるかもしれませんが、経済的にかなり厳しくなります。したがって、HIV陽性者の場合は、感染を告知されて病気を受け入れるのとは別の段階で、「障害者になること」に直面することになります。ひとによっては立て続けに直面する機会が発生しますが、僕のようにかなり時期がずれる人もいて、感染の事実を受け入れてしばらく経つのにもかかわらず、障害者になることが受け入れられないという方も実際います。
このとき、障害者という存在をネガティブに、あるいは差別的にとらえている人ほど、自分がそのカテゴリーに属するということに抵抗が強くなるように思います。
先ほど述べたように服薬開始のタイミングで障害者手帳を取得するケースが多いわけですが、服薬を開始するかどうかには患者の意思が反映できるので、単純化した物言いをすれば「これから障害者になるかどうか」を自分で決定するということです。
治療に向き合うことは同時に障害者というステータスに向き合うことでもあります。
僕自身は、以前の記事で書いたヒューマンライブラリーなど、HIV陽性者だけではない、いろいろな障害を持つ人との接点を持つ機会を利用しながら、障害者って制度上必要な括りとして使うけれど実際は個人個人バラバラだよね、というところを確認して受け入れていった気がします。
この記事(当事者意識ってどうすれば持てるの?「分かる」と「知る」の大きな差【イベントレポート】)に出てくる“HIV感染者”は実は僕なのですが(当時はライターになるとか予想もしてませんでした)、当事者として他の当事者と対等に話ができる場にアクセスすることは、僕にとっては面白いし、自分に役立つことだったなと思い出します。
ちなみに、免疫以外の障害をお持ちの方で、僕がHIVをカミングアウトして態度が一変した人はいまのところいません。冒頭で述べた集まりでも、「じゃあ普段何か気をつけてたりするんですか?」とか質問されまくったりしましたが、ネガティブな反応は全くありませんでした。こうした集まりに来る人というバイアスはあるかもしれませんが、この集まりは少なくとも大抵の疾病や障害、さらに多様な個性を受け入れる土壌のある場だったということは間違いありません。個性豊かな障害者たちが集まる過程でこのような土壌が出来上がったのだろうと思います。
多様な個性を受け入れる土壌のある場が少しでも増えたらいいなと心より願っていますし、HIV感染症も勝手なイメージがつきやすい疾病なので、イメージを覆すタイプの当事者もいるんだぞ、ということを示していきたいなと考えているところです。