装具・義足の修理は病院の診療のようなもの。だから嫌い。

クリスマスイブである今日、壊れていた装具の修理に行きました。両足が不自由な僕の場合、左足は歩行を補助するための装具を履き、右足は切断していることもあって義足を履いています。今回は左足の装具の修理でした。
 

金具が断裂しています。(写真右中央部)
金具が断裂しています。(写真右中央部)

 

僕にとって装具は自分の足と同化している存在なので、今回の修理箇所でいう金具の断裂は健常者でいう靭帯断裂のようなものです。健常者のように痛みがすぐ出るわけでも、まったく歩けなくなるわけでもありませんが、じわりじわりと歩行姿勢のバランスに影響を与え、身体の違う部分に痛みや疲労を発生させます。健常者が痛みをかばって歩いたときの感覚と似ているのかもしれませんが、僕は「普通に」歩いた経験がないので、こればっかりは分かりません。
 

併せて、装具を締めるマジックテープのクリーニングと交換もお願いしました。これはすね毛の処理のようなものです。修理やメンテナンスは病院での診療・診断と似ていますし、クリーニングはエステと似ています。とは言っても、好き好んで装具や義足を履いているわけではないので、今日はどんな髪型にしようかしら?とときめきながら美容院に行く感覚とは異なります。しょうがない、行くか。そんな気持ちです。
 

装具や義足は「歩行を補助・支援する」ための道具なので、基本的には「走る」・「登る」・「泳ぐ」といった活動には適していません。長時間の歩行ももちろんです。よくアスリートが履く義足(カーボン製で足の先端が湾曲しているもの)を引き合いに出されて話を受けることもありますが、あれは競技用ですので性質が異なります。
 

こんな両足だと歩けただけで幸いだったようです。
こんな両足だと歩けただけで幸いだったようです。

 

装具が壊れたことを話すと「無理したでしょ?」という顔をされることが多々ありました。僕には歩けるようになったことが奇跡的と言われた幼少期があるので、小さい頃に修理をお願いしたときには、体育でサッカーしてたとか、山道を駆け上がったとか、原因を話すと叱られることがほとんどでした。健康優良児でぷくぷくと肥えてたときには痩せようねと諭されたことも。伝えてくれた義肢装具士さんは優しさからの言葉だったと思うのですが、個人的には「叱られる・嫌だ」という思考回路に陥りました。このような経緯があることで、装具の修理にいくだけで冷や汗をかいていた時代もありました。もちろん、痩せることは大切でしたが。
 

「修理に行く=叱られる」という原体験は、今の僕には「白衣高血圧」というまた違ったカタチで継承されています。病院で医者や看護師の白衣姿を見ると、自律神経に影響が起こり、血圧が高くなるというものです。病院嫌い、診断嫌いがきちんと神経系統に悪影響を与えてくれるといったほうが適切かもしれません。検査器具を目にする、身につけられるだけでも、くらくらし始めることすらあります。
 

「先生」と呼ばれる存在は、継続的にお世話になればなるほど、上下関係がより明確になる印象を受けます。何となく逆らえない。何となく畏怖している。何となくずっとお世話にならなくてはいけない。僕にとって装具や義足の修理・製作にまつわる人たちは、そんな存在として捉えていたのかもしれません。
 

装具や義足づくりは病院での診断から始まる場合もあれば、僕のような履き始めてまもなく30年というベテランだと障害者福祉センターや義足の製作所での判定からのスタートの場合もあります。ただ、いずれにせよ、僕にとっては「診断」スタートであり「血圧が高くなる空間と時間」です。目の前の判定員さん(装具や義足をつくるには福祉的な判定を受ける必要があります)が業務的にこなしているように見えれば、また違う意味でのストレスも生まれますし、義肢装具士さんが僕の生活スタイルを聞かずにただ足だけを見て装具づくりを始めようとすれば、僕は難癖をつけ始めるでしょう。
 

装具を履く、義足を履く、という行為なくして歩くことはできませんし、それに関わるひとの支えに感謝は尽きませんが、準備にまつわる様々なことは嫌いです。気がついたら身体にフィットしている義足ができていたなんて夢のような技術があれば、世界中探し回ってもいいくらい。そんな人間です。
 

障害は個性だという論調も時にありますが、障害は欲しくて得た個性ではありません。この個性によって、普通の人にとって行くはずのない場所でストレスが増す可能性が発生するのであれば、僕にはそんな個性は要りません。足が不自由な上に、ストレスが増える。それを個性という言葉で片付けようとするから、障害者は歪むのかもしれません。かわいそう、大変、頑張ってね、などの同情票はまったく求めませんが、こんな心情で装具や義足を履いている人間(ユーザーの中のマイノリティ)がいるんだと知って頂ければ嬉しいなと思います。
 

ただ福祉用具を作ればいいという時代は終わり、カッコいい・カワイイといった個人の嗜好に併せたものづくりや、ライフスタイルに合った機能性を求める時代が来ています。福祉用具を作るひとと当事者の接点が増えること、互いの考え方や価値観を知り合うことは、重要になってくるでしょう。少なくとも僕のイヤイヤ病を改善するために、作り手の顔と心が見える福祉用具が増えてくれれば嬉しいです。
 

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この記事を書いた人

佐々木 一成

1985年福岡市生まれ。生まれつき両足と右手に障害がある。障害者でありながら、健常者の世界でずっと生きてきた経験を生かし、「健常者の世界と障害者の世界を翻訳する」ことがミッション。過去は水泳でパラリンピックを目指し、今はシッティングバレーで目指している。障害者目線からの障害者雇用支援、障害者アスリート目線からの障害者スポーツ広報活動に力を入れるなど、当事者を意識した活動を行っている。2013年3月、Plus-handicapを立ち上げ、精力的に取材を行うなど、生きづらさの研究に余念がない。