はじめまして。樋口彩夏です。
みんなが暮らしやすい社会って、どんなカタチだろう?
20代車椅子女子の目線から考えます。
私たちの生活にすっかり馴染んだ、エレベーター。最近では、階段を上る習慣すらなくなるくらい、身近なものになっているように思います。車いすに乗っていると、皆さんはなかなか気づかないであろう光景に度々遭遇します。
休日の商業施設や駅で、エレベーターに乗ろうと、ボタンを押して待っている時のことでした。エレベーターの扉が開くと、中は人・人・人・・・。そう、満員です。中にいる人は、車椅子に乗っている私と目が合うと、決まって、うつむきながら目を逸らします。そしてそのまま扉が閉まり、エレベーターは行ってしまう。私は、それを見送り、次を、その次を、そのまた次を、待つことになりました。
ひとつ、気になることがあります。中にいる人、特に私から目を逸らした人たちは、あの瞬間、なにを思ったのでしょう?うしろめたさ?申し訳なさ?
そもそも、エレベーターとは、建物の階を上下するための移動手段です。代替手段としては、エスカレーターと階段がありますが、下記の表を見てみてください。
表にならうと、車椅子の私は、エレベーターに”しか”乗ることができない人で、中にいて目を逸らした人たちは、他の方法でも移動をすることができる人であるという理解ができると思います。この事実に基づいて考えると、あの場面でエレベーターに乗るべきなのは、私だったのではないでしょうか?
もちろん、エレベーターは誰が使ってもよいものです。重いものを持っていたり、小さい子供を連れていたり、場面場面に応じて重宝することも多いと思います。ときには、階段でもエスカレーターでもなく、エレベーターに乗りたい!という気分の日もあるでしょう。使われずに錆付くよりは、みんなに使ってもらえた方が、エレベーターも嬉しいはずです。
しかし、エレベーターしか使えない人がいるという、事実を忘れてはなりません。
前出のエレベーター内の人たちは、きっと、そのことに気が付いていたのではないでしょうか?それゆえに「うしろめたさ」を感じ、「目を逸らす」という行動に表れたのだと思います。少なくとも私は、その人たちが抱えた「申し訳ない」というココロを感じました。
もし、あなたが同じような状況に遭遇したとき、車椅子の人を置いていくことに「うしろめたさ」を感じるのなら、ぜひ次の行動をとってください。
「車椅子の人に、エレベーターをゆずる」
この行動をとれるアナタは、間違いなく、カッコイイ。想いを行動で示すのは、とてもパワーのいることです。とっさの瞬発力に加え、ゆずっても大丈夫な時間とココロの余裕を持ち合わせていなければなりませんし、人を思いやれる人格者でなければなりません。私もそんな大人を目指したいものです。
別のある日、新たな発見がありました。「うしろめたさ」を感じない人の存在と、その理由です。
その人たちに、悪気はありませんでした。「車椅子=エレベーターしか乗られない」ということに、気が付いていなかったのです。
いつまで経ってもエレベーターに乗られないことにシビレを切らした私は、図々しくも思える行動に出ました。「すみませーん、車椅子なんです。乗せてくださーい!」とてもリスキーではありますが、この言葉とともに前へ進んでいきました。
すると、予想外の返答に、拍子抜けしてしまいます。
「あら、そう言われてみれば、そうよね。気が付かなかったわ。
私は、エスカレーターで行けるから、こちらへどうぞ〜。」
上品な雰囲気のおばさまは、そう言い残し笑顔で去っていきました。
このとき私は、「知らない」から生まれる「バリア」があることを知ったのです。「ゆずってくれるだろう」という受け身の姿勢ではいけません。障害者が自らバリアを乗り越える工夫をする必要があります。
車椅子で生活をする人がぶつかるバリアは、2つに大別できるでしょう。
・建物や設備などハード面のバリア。
・私たちのココロが作っているソフト面のバリア。
これは、健常者、障害者、双方に言えることです。
バリアフリーだ、ユニバーサルデザインだ、なんて、世の中は言っているけれど、本当にそうなのでしょうか?至る所にエレベーターやスロープが増えてきたことで、車椅子で生活をする私としてはだんだん暮らしやすくなっていることを実感しています。でも、私たち人間のココロは、それに付いていっているのでしょうか?建物や設備がよくなっても、それを使う人のココロが伴っていなければ意味がありません。
社会に広がるさまざまなバリアの多くはココロで超えられるのではないか?私は、そう信じたい。そう信じています!