女子高生の生きづらさをお届けしております、飯田です。
1年次の授業が全て終わり、時の流れの早さに少々唖然としておりますが、苦手な世界史の単位も修得し、私はどうにか二年生に進級できるようです。今回は、女子高生の生きづらさを通し、先生が発する言葉の薄っぺらさについてお話させていただこうと思います。
友達と撮ったプリクラをSNSにアップするのは、高校生の間ではよくある事なのですが、1月頃に、私は、私と同じ学年の、男子2人と女子2人で構成されている4人のグループがアップしたプリクラをTwitterで見ました。そのプリクラの落書きには、去年の夏休み明け、文化祭に向けて生徒たちが盛り上がっていく頃に、「服飾の道に進みたい」という強い思いで学校を自主退学した女の子を馬鹿にするような内容が書いてありました。
退学してしまった女の子と私はクラスが離れていたのですが、Twitterで相互フォローをしていたので廊下ですれ違えば少し話す、というような仲でした。退学すると聞いた時は驚きましたが、周りの冷ややかな目に一瞥もくれず、夢を追おうとする彼女の姿を見て、私自身も頑張ろうと勝手に勇気を貰っていました。
通学の為に乗る電車での暇つぶし中にたまたまそのプリクラを発見したのですが、それを見て、全身が重くなって、その場に座り込みたくなるような感覚を覚えました。その4人組だって、彼女が学校をやめる前まではそんな事しなかったくせに…。
プリクラをアップした彼らにとって「友達」というのは、学校を辞めた途端に「敵」となってしまうようです。「条件を満たせば友達、満たせなくなったら友達失格。はい、さようなら。」という軽薄な関係性のようです。
では、なぜ、学校を退学して関わりが無くなった子を4ヶ月が経った今、悪く書くのでしょうか。私は、彼らにとって、グループ外の人間(=退学した子)への攻撃というのは、グループ内の人間(=一緒にプリクラを撮った子)への不器用な愛情表現なのかもしれないと考えました。「あいつはマジウザいけど、それとは比べてお前らは好き。」というような比較論です。
これを読んでくださっている皆さんは、彼らの行動についてどう思うでしょうか。「理解に苦しむ」「酷い高校生だ」と感じる方もいらっしゃるかと思いますが、私は、この「あれが嫌だから、これが好き。」とか「あれが間違っているから、これが正しい。」というような考え方は、社会にも蔓延っていると思います。
むしろ、大人が私達にそういう思考を刷り込んでいるんじゃん(笑)?
例えば、進路について。多くの先生や大人達は「ある程度の偏差値がある大学に行け」と言い、私がそのわけを問えば、「将来、困らないから」と答えます。有名大学を出た方が将来、就職先など、困り難いというのは、往々にしてあると思いますが、「将来、困らないから」と漠然と答えられても、私の胸には響きません。
すぐ数値化して比べたがる大人達から「幸せとは何か」という事を教わった事は一度もありません。ある程度勉強してきたからこそ、先生はそう言うのだろうけど、朝イチの授業中で辛いと愚痴をこぼす先生だっているし…。偏差値のある大学に行き、競争社会をある程度の順位で通過して「教師」という職に安定した大人を私が見ると、全然幸せそうに見えないのはなぜなのでしょう。
例えば先生が「稼いだお金で家族を養うのが僕にとって幸せ」と言い、「だから僕は教師をしているんだ」と答えるなら納得しますが、その意見を飛び抜かして比較論を押し付けるのは、納得がいきません。
あなたにとって、幸せとは何ですか。
何十年も生きてるなら、そろそろ考えてもいいんじゃないですか。比較することでしか物事を見れなかったり、競争社会の是非など考えず「勝てれば、それで良い」といつまでも考えていたりするのが、苦しさを生むんですよ。それが、今日の生きづらさの正体ではないでしょうか。
私は、学びたい事を学ぼうと思っているし、その上で行きたい大学を決めたい。条件を持って選ぶような人間関係を築きたいとは思わないし、好きじゃない人を使って愛情表現をしようとも思いません。
私はこれから、競争社会を離脱して、先生の言葉を鵜呑みにしない為に、「幸せとは何か」について、考えたいと思います。今晩は、好きな友達と「幸せ」について語り合いたいな。