生きづらい人は「自己認識」を疑ってみませんか?

辛いことがあっても、普通に生きていたつもりだった。視野の狭いうちは、自分だけが基準だったから。
 

でも遅かれ早かれ、気づいてしまう日が訪れる。気づかされてしまう日が来る。自分の感じていた違和感に名前がつけられる日が、来てしまうのだ。
 

「生きづらさ」
 

この5文字に出会ったとき、私たちの違和感は氷解する。「どうやら、自分は”生きづらい”人間だったようだ」。そう自分を定義づけた途端、ようやく居場所を見つけたような感覚にさえなる。
 

一時の安堵も束の間、すぐに次の課題に直面する。「では、どうしたら生きづらさから解放されるのだろうか?」。この答えに出会えるまでの道のりは長い。生きているうちに解決する保証もない。
 

生きづらさと上手く付き合うには、生きづらさの構造を理解するしかない。
 

この記事では、私が独自に解釈した「生きづらさの構造」の一部を共有してみたい。
 

自己認識
 

生きづらさは人それぞれ

 

一言で「生きづらさ」と言っても、その意味は人それぞれ違う。この記事では、以下のような生きづらさを対象にしている。
 

1)社会との不調和に基づく生きづらさ
 

コミュニケーションがうまく取れない、集団行動が苦手だ、みんなと同じ動作ができない、時間や約束を守れない、人の気持ちが分からない、人と嗜好が違いすぎる…などがこれに該当する。
 

2)自己否定感に基づく生きづらさ
 

自分の容姿が醜い、いつも漠然と死にたい、生きている価値がない、誰からも愛される資格がない、見捨てられるのが怖い、自分を傷つけたい…などがこれに該当する。
 

こうした生きづらさは、いわゆる「心」(または「脳」)と呼ばれる部位で発生すると私は考えている。”空気を読む”能力のなさや、特定の外見的特徴そのものが、生きづらさを生み出すわけではない。
 

では「心」で何が起こると、生きづらさが発生するのだろうか。人前でうまく話せないことに悩んでいるAさんを例に説明してみる。
 

生きづらさが生まれるしくみ

 

コミュニケーションの取り方や人の容姿などの、ある人物に付随する性質はすべて、本来は中立的なものであり、良し悪しは存在しない。
 

たとえば、Aさん、Bさん、Cさんが3人で会話しているとする。BさんとCさんに比べて、Aさんの発言回数は少なめだ。
 

BさんやCさんはAさんのことを、言葉を慎重に選ぶタイプで、性格も落ち着いており、冷静な判断が信頼できる人物だと思っている。しかし、Aさんは会話するたびに「やっぱり自分は、人前でうまく話せないな…」と劣等感や疎外感を感じている。
 

Aさんは普段から、自分を「人前で話せない、根暗な人間だ」と悪く自己認識しており、治したいと思っている。つまり、Aさんは、自身の中立的な性質である「言葉を慎重に選ぶ、落ち着いた性格」を無視した自己認識を持ってしまっているのだ。こうした想いは、「テンポよく話し、自分から話題を広げられる人間になるべきだ」という理想像の形成につながる。そして、この理想像に向かう努力が報われることはない。なぜなら、自分の性質を無視した自己認識から生まれた、誤った理想像だからだ。
 

もし、自分の性質を「言葉を慎重に選ぶ、落ち着いた性格」と中立的に認識できていれば、「では、聞き上手になろう」といった具合に、自分の性質を活かした理想像の設定ができる。このように、理想像が実現可能なものであれば、努力や心がけ次第で近づいていくことができるだろう。
 

実際の性質を無視した自己認識と、誤った理想像のギャップを埋められない状態に陥ってしまったとき、人の心に生きづらさが宿る。生きづらさを乗り越えるには、まず自己認識を修正しなければならないのである。
 

自己認識
 

自己認識に正解はない

 

しかし、自己認識を修正するのは容易ではない。
 

誰もが生きる過程で、周囲からのメッセージを受け取る。「あなたは口下手だね」とはっきり言われる場合もあれば、「彼女に振られたのは口下手のせいかも…」と相手のメッセージを推測する場合もある。こうしたメッセージが積み重なることで、「自分はコミュニケ―ションに問題がある」という自己認識が形成される。
 

「自分は自分、人の意見なんか気にしないほうがいい」などと言う人もいる。しかし、客観的に自分を認識しようと思ったら、他者からのメッセージに頼るしかない。自分の性質が本当は中立的で良し悪しがないものだったとしても、その中立性を認識するのはほとんど不可能だ。
 

ただし、逆に言えば、過去に異なるメッセージを受け取っていたならば、今の自己認識はもっと違ったものだったかもしれない。自己認識は、本当はあやふやなものなのだ。ゆえに、自己認識を修正することは難しいとしても、今の自己認識が絶対正しいわけではないという可能性を疑うことはできるのではないだろうか。漠然とした死にたさが襲ってきたときに、その死にたさの原因を少しでも疑ってみることで、苦しみの中にありながらも、少しだけ冷静な視点が芽生えるのではないだろうか。
 

 

以上のように、生きづらさの構造の理解に努めることで、生きづらさに溺れ死ぬことはなくなってゆくと信じている。
 

今も私は、自分はダメだと思いながらこの記事を書いている。せっかくお仕事を貰えても、自分を無能で無価値だと思っている。何を成し遂げても、自分にOKを出すことのない人生。それでも「もしかすると、本当はダメではない可能性があるかもしれないな、わら」と冷静視するよう心がけることで、自己否定に溺れ死なずに記事を書くことができている。記事を書き終え、パソコンを閉じ、就寝し、起きればまた、自分に自信が持てず、喜怒哀楽のコントロールもできず、期待に応えてくれない他人と社会を恨む、いつも通りの一日が待っているのだとしても。
 

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