タイトルは、現在アメリカに留学している日本人の友人が、僕に言ってきた言葉です。
彼は数年前、ニュージーランドへ留学していた頃に、アジア人差別を受けていました。「差別を受けていた当時は、自分がアジア人(=ある場所では差別の対象となり得る人種)だという認識をし始めただけで、受け止めきれなかった」と彼は言います。「だからこそ、アジア人であることを後悔もしたし、白人を恨んだりもしました」とも。
アジア人であること、そしてそれによって差別されていたことを受け止められるようになったのは、帰国後にその体験をカミングアウトし始めてからだそうです。怖い思いをしたこと、深く傷ついたことの、体験のカミングアウト。そうして色々な人と言葉を交わしていくことで、自分のなかでも落とし前をつけていった、と話してくれました。とはいえ、今アメリカで暮らし始めた彼が改めて気づいたことは、当時の体験が軽いトラウマになっていることでした。例えば、学校や街中で他人種とすれ違う際、なんとなく目が合ったりする瞬間にストレスを感じているそうです。そのことが、今回の僕らの話のきっかけでした。
ある場面では『当事者』である人が、別の場面では『非当事者』や『傍観者』になります。その逆も当然あって、普段『非当事者』や『傍観者』として生きていても、ある時ふいに『当事者』となることもあります。例えば僕は、同性愛の話題においては当事者として括られますが、例えば難病の話題になれば非当事者または傍観者に属すこととなるでしょう。上記の彼について言えば、海外で暮らす日本人視点を語る場合に、それは当事者の話だと言えると思います。
では、僕がゲイだということで差別を受ける場合、また、友人の彼がアジア人だということで差別を受ける場合、どちらもそれぞれ、僕ら個人が差別を受けていることになるのでしょうか。
僕らの会話の中では、差別を受けて傷ついたのは僕のゲイという一側面であり、彼のアジア人という一側面であって、僕ら全体を差別されたわけではない、という話の展開になりました。他人から褒められようが馬鹿にされようが、人は一人ひとり異なる何かを持った当事者であり、『○○○○』という名前を持った個体です。
人という個体が持つ要素は、性的指向だけでも人種だけでもありません。経験や体験や感情、人生の物語も、構成要素になります。それら無数にある要素が一つの個体として統合されていく過程に、カミングアウトという行程が必要なのかもしれません。カミングアウトは、ある場面における自分の当事者性を意識的に受容する行為であって、同時にカミングアウトした他者からは何らかの当事者だと認識されます。しかしその後、自分自身がそれを構成要素の一つとして受け入れること、特定の他者との関係において自己開示ができていること、その他者が自身の存在を受容してくれること等を通して、その一つの要素は、名前を持つ個体に吸収されます。つまりお互いに、何らかの当事者/非当事者である意識は、日常のなかで薄らいでいきます。
逆に言うと、何らかの当事者として自身が強く意識している状態は、言動や行動にその意識が偏って現れるはずなので、他者からもただの『当事者』としてしか見られないでしょうし、当然、特定の名を持つ統合された個体=個人としては扱われません。
友人の彼は、アジア人差別を受けていた当時、「確かに俺はfucking Asianかもしれないけど、それと同時に○○○○(フルネーム)なんだぞ!」と強く思ったそうです。そこから、自分をさらけ出せる物事を通して仲間を作っていったと話してくれました。今となっては「その体験をした自分に、少しばかり誇りを持っている」とさえ言います。
人種も性別も、性的指向や性自認も、障害や疾患も、生まれ育った環境や過去に受けた心の傷も、得意なことや苦手なことも、いま悲しいと感じていることや嬉しいと感じていることも、全部まとめて受け入れることができたら、ようやく統合された自分になれて、その全ての要素が特別なものではなくただの要素になります。特別なのは、それら無数にある要素を引き受けることのできた、その人自身なのです。
生きている全ての人は、何かの当事者です。友人が僕に言ったタイトルのセリフは、短い言葉のなかに、これまでの彼の葛藤と時間が詰まっているからこそ、僕の心に残ったのだと思います。