『裸の島』 ー「でもやるんだよ!」ー

こんにちは。新名庸生です。今回ご紹介する映画は、新藤兼人監督の『裸の島』です。

 


 

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【ストーリー】(DVDパッケージより)

瀬戸内海の孤島に住む夫婦と二人の子供。水のないこの島で畑を耕すため、夫婦は小さな舟に桶を積んで対岸の島とを往復する。苦労して運んだ水も、乾き痩せた大地は一瞬にして飲み込んでしまう。だが夫婦は、春も夏も秋も冬も夜明けから日没まで、舟を漕ぎ畑に水を撒き続けるのだった。ある夏の日、長男が高熱を出して倒れた。夫は医者を求めて舟を漕ぎ出すのだが…
全編一切のセリフを排し映像と音楽だけで語った意欲作。自然と闘いながら逞しく生きる人間の姿が強く胸を打つ。海外六十三ヶ国で上映され、モスクワ国際映画祭グランプリをはじめ各賞を受賞した映画史に残る傑作。

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セリフがないため行動・動作が自然と際立ちます。冒頭繰り返されるのは夫婦が舟で何往復もして水を自分たちの孤島に運ぶ様子。生活と農作物の世話のため、季節を通して毎日水を運びます。島も自分たちのものではなく、収穫物の一部を地代として地主に納めているシーンがあります。貧しく働きづめの毎日ですが、彼らには小学生と就学前のふたりの子供がおり、その子らの存在が彼らの心の支えになっている様子もだんだんとわかってきます。母親が舟で学校の送り迎えをする場面、一日の終りに家族がそれぞれドラム缶風呂で汗を流して気持ちよさそうにする場面などにはささやかな幸福感が漂います。
 

20160714
 

描かれるのは一昔前のある貧しい農家の生活ですが、同じことをただひたすら毎日繰り返すということはいつの時代の誰にとっても日々の生活の一部に存在することだと思います。その淡々とした日々を当然のこととして受け入れられるうちは良いのですが、ある時、果たしてこれは何のためにやっているのだろうと疑問が湧き、虚しくなる瞬間があります。その瞬間に直面したとき人はどうするのか。これは『裸の島』の眼目でもあります。この作品を観るとき「でもやるんだよ!」という言葉が私の脳裏をよぎります。
 

「でもやるんだよ!」とは漫画家の根本敬さんがボランティア施設で犬の世話をしている従業員との会話の中で採取した言葉です。
 

「いいか、俺はね、毎日1日に2回エサやるけど、エサが終わると全部いちいちこうやって洗ってるんだよ、ぴかぴかに。でもわざわざこんなの洗剤使ってゴシゴシ擦る必要ないんだよ。水でちゃちゃっちゃっとやりゃあ、それでいいんだよ。な、こんな事無駄な事だと思うだろう」

 

「え、いやまあ」

 

「そうだよ、無駄な事なんだよ」

 

で、次にドスの利いた大きな声で、
 

「でもやるんだよ!」 (『因果鉄道の旅』)

 

日々を生きることにおいて、理屈なんてものは後になってようやくついてくるものなのかもしれません。「でもやるんだよ!」という言葉の根底にあるのは理屈では追いつけない「生き抜く」ということへの決意です。自分の毎日の仕事の意義なんてものはもしかしたらないのかもしれない。やるせないことなのかもしれない。でも今日を生き抜くためにはやるしかない。『裸の島』で悲しみに突っ伏し、それでも立ち上がりまた水を撒き始めた母の姿にも同じような決心を感じます。
 

生きるということはダンスを踊ることと同じです。夢中になって踊っている間、そのダンスは間違いなくそこにあるけれど、自分の踊りはどんなものか確認しようと踊るのをやめてしまえばそのダンスは消えてしまう。自分の踊りを確認するには踊り続け、その中で感じていくより仕方がない。生きるということも同じで、たとえ途中で自分の生き様に疑問を感じてもとにかくその日を生きてみる。自分は何か大きな間違いを犯しているのかもしれない。それでも死なずに今日を生きてみる。それを続けていけば自分のダンスの軌跡がようやく何らかの意味を帯びてくる。それは途中で踊りをやめていくら頭をひねったところで決して分からなかったものかもしれません。
 


 

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