『BOY A』と『絶歌』を通して考えた、生きて罪を償うということ

2008年に劇場公開されたイギリス映画『BOY A』を映画館で観た直後の感覚は、大切な友だちに出会って、その友だちを失ったような喪失感でした。そして2015年6月に手に取った、元少年Aの著書『絶歌』を読み終えて考えたことは、生きて罪を償うことの途方もない苦しさについてでした。
 

元犯罪者が改めて社会のなかで生きていくために、新たな名前を纏って過去の罪を伏せることも、逃げるように隠れるように、いつも何かに怯えながら生活をすることも、どちらも想像するだけで多大な心労を覚えます。加えて、本来の自分とは別の自分が生活のなかで出会っていく人々との関係において、その濃度が上がれば上がるほど、犯罪者であることを隠している罪悪感は強くなり、次第に、自分へ向けられる笑顔や温かい言葉を素直に喜べなくなってしまうように思います。
 

『BOY A』の予告編動画。
 

「生きる」ことと、ありのままの自分でいることは、とても強く関係していると僕は考えています。他者から見えている自分と、自分が認識している自分に大きな乖離がないことは、日々の暮らしを健やかにしますし、他者との関係構築における障害も少なくします。逆を言えば、ありのままの自分でない状態で生きることは、果たして本当に「生きて」いるのかという疑問を生むことに繋がります。
 

社会のなかで生きていくために名前と過去を変えることは、この社会ではやむを得ないことではありますが、それは元犯罪者から「生きる」ことを奪う行為にも思えます。名前と過去を変えなければ、社会からの制裁によって物理的に「生きられ」なくなりかねませんが、名前と過去を変えれば心理的に「生きられ」なくなってしまう。世間で言うところの「生きて罪を償う」ということは、どちらの「生きる」を殺すことなのか、この二つの狭間で苦しみ続けること自体が罪を償うということなのか、それとももっと別の何かなのか。
 

「死ぬまでこの問いを抱え続けていくことこそ、生きて罪を償うということなのではないか」
 

絶歌を読んで考えた結果、僕の今の仮説としては、このような言葉となりました。
 

20150805記事
 

ところで、凄惨な事件が起こるたびに、世間の人々は判決の出ていない容疑者を袋だたきにしますが、どうしてそこまで過剰に被害者側への感情移入ができるのか、不思議に思っています。自分の子供が、親が、親友が、恋人が同じような事件を犯しても、見ず知らずの被害者へいつも通りに感情移入できるのでしょうか。目の前にいる自分にとって大切だった人を、いつも通り袋だたきにするのでしょうか。
 

被害者側の感情を想像することも、罪を憎むことも、大勢の人が共に暮らしているこの社会のなかではとても大切なことで、それが機能しているから日本は安心に過ごせるのだと思います。一方で、死刑になっていない元犯罪者は、カミングアウトしていないだけで、きっと身の周りにいます。もしかしたら、自分にとってとても大切な人が、過去の大きな事件の加害者かもしれません。その加害者の家族かもしれません。
 

僕らは、社会を構成する一人であるとともに、目の前の人にとっては、親であったり、子供であったり、親友であったり、恋人だったりします。手の届く範囲にいてくれる人々へ先入観を持つことは、いつか相手や自分を傷つけます。犯罪の話に限らず、過剰にどちらかの立場に偏らずバランスを保とうとすることで、身の周りの人々も自分も生きやすくなるのではないでしょうか。
 

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