水俣の「核心」を、今の「言葉」にする。水俣病公式確認から60年、その先へ―

2015年5月9日。有楽町マリオン朝日ホールの約800席は、ほぼ満員の聴衆で埋まっていた。会場を見渡すと、大学生や10代と思しき若者の姿もちらほら見受けられ、少々意外に思う。「水俣病(※1)」というテーマに関心を持つのは、中高年ぐらいだろうと思っていたからだ。
 

この日開催されたのは「第15回水俣病記念講演会」。副題は「いま、人として」。水俣病の発生が報告された1956年5月1日にちなみ、1999年の第1回を皮切りに毎年この時期に開催されてきた。水俣病の患者やその家族をはじめ、石牟礼道子、筑紫哲也、ピーター・バラカン、池澤夏樹……といった錚々たる顔ぶれがこれまでに登壇している。「水俣病は教科書で学ぶ四大公害病のひとつ」程度の認識しかなかった私にとって、水俣病がこれほど多くの人々を惹きつけるテーマであることもまた、予想外のことだった。
 

第15回水俣病記念講演会のチラシ
第15回水俣病記念講演会のチラシ

 

会の終わり、一人の人が壇上から会場に語りかけた。
 

「水俣病公式確認から60年を迎える来年は、今年より何倍も広い会場で講演会を開催します。今まで声をかけてこなかった人たちにも呼びかけて参加していただきたい。私たちが歩んできたこの60年間、本当はもっと違う方向があったのではないか、本当はこんな世の中で良いと思っていないのではないか、ということを考える場にしたいと思います」

 

言葉が終わると同時に、会場は大きな拍手に包まれた。会場の誰もが、今より何倍も広い会場に何倍もの人が駆けつけている場面を想像したのではないか。60年のその先へ、どんな一歩を踏み出すか。そう問いかけたのは、講演会の主催者である認定NPO法人水俣フォーラム理事長・実川悠太さんだった。
 

公式確認から60年を迎えようとする今、水俣病を考える意味とは何なのか。水俣フォーラム設立から20年間「水俣」を伝え続けてきた実川さんに話を伺った。
 

認定NPO法人水俣フォーラム 理事長・実川悠太さん。水俣フォーラム事務所にて
認定NPO法人水俣フォーラム 理事長・実川悠太さん。水俣フォーラム事務所にて

 

患者を「支援」するのではなく、患者に「協力」してもらっている

 

東京・高田馬場に拠点を置く水俣フォーラムは、記念講演会をはじめ、全国での「水俣展」開催、それに伴う出版やライブラリー開設、「水俣病大学」「水俣セミナー」「水俣への旅」など、水俣病と人々をつなぐ活動を行っている。つまり、患者への直接的な支援を行っているわけではないのだ。
 

「水俣フォーラムは、いわゆる支援団体ではありません。社会教育活動というと固い言葉になってしまいますが、水俣病を通じて『近代』や『人間』について、ともに考える機会をつくるべく活動しています。水俣病は、多くの人が犠牲になり、多くの調査、研究、表現が残されているわけですが、それらを自分たちが生かさなくていいのか。人間はどのように生きればいいのか、もう少し社会を暮らしやすくするにはどうしたらいいのか。水俣病を通じて、そうしたことを多くの人と考えるために、患者の人たちに協力してもらっている。そう言った方が正確だと思います」

 

水俣フォーラムが定期的に刊行している『水俣フォーラムNEWS』。毎号表紙の写真と一言が印象的
水俣フォーラムが定期的に刊行している『水俣フォーラムNEWS』。毎号表紙の写真と一言が印象的

 

映画を見に行く感覚で、水俣病を知ることができる場を

 

フォーラムの様々な活動の中でも、「水俣展」はこれまでに全国24箇所で開催され、約14万人を動員してきた。水俣フォーラムは、1996年に開催された「水俣・東京展」の実行委員会が母体となっており、水俣展がなければ水俣フォーラムは存在しなかったと言ってよい。
 

「80年代末くらいから水俣病も和解に向かって行ったわけですが、和解になると事件の過程で指摘された政治的、社会的、文化的、教育的……そういった様々な問題があたかも無かったかのようになってしまう。果たしてそれで良いのだろうかという思いがありました。ちょうどその頃、水俣に水俣病歴史考証館をつくる動きがあり、支援活動やフリー編集者として水俣病に関わっていた私も、開館の手伝いをしたんです」

 

考証館は1988年に開館したものの、まだ水俣病がタブー視されていた地元から訪れる人は少なく、かといって東京からふらっと訪ねる人がたくさんいるはずもなく、よほど熱心な人しか訪れなかった。
 

「これは一度東京で、誰でも遠慮なしに来られるような場を作らなきゃいけないなと思いました。当時は未認定患者の人たちの運動が盛んだったので、『水俣病=政治問題・闘争』という印象が非常に強かった。患者さんの話だけをぱっと聞ける機会がなかったんです。だから、色んな人たちが『お芝居見に行こうかな。映画見に行こうかな。いや、水俣展やっているから行こう』というノリでいいから、訪れることのできる場を作ろうと思って、水俣病公式確認から40年目の1996年に水俣展を開催したんです」

 

水俣展総合パンフレット。「水俣展の構成」「水俣病の表現」「水俣展の記録」の3部構成で、 188点の写真を用いて水俣病をわかりやすく解説。水俣フォーラムより購入可能
水俣展総合パンフレット。「水俣展の構成」「水俣病の表現」「水俣展の記録」の3部構成で、
188点の写真を用いて水俣病をわかりやすく解説。水俣フォーラムより購入可能

 

開催にあたっては1億8千万円もの資金が集まり、展示には16日間で3万人が訪れた。水俣病事件についてのパネル、写真、映像、現物などで構成された展示は、来場者やメディアから称賛された。
 

「先のことはあまり考えてなかったんですが、多くの人が褒めてくれて、東京だけでなく全国でやろうということになりました。それで、活動を継続するために『水俣・東京展実行委員会』を『水俣フォーラム』に変えたんです」

 

実は、水俣病に助けられてきた

 

第15回水俣病記念講演会のチラシには、こんな言葉がある。
 

「(水俣フォーラムは)水俣病を“鏡”として『近代』と『人間』を問うために、全国での『水俣展』(中略)の開催をつづけている」
 

水俣病を「鏡」にするとは、どういうことだろうか。
 

「水俣・東京展をやると決めたとき、『なんで水俣展をやるのか』ということを考えつめたら、自分は水俣病を支援してきたつもりだったけど、実は水俣病に助けられていたことに気がついたんです」

 

水俣病事件の起こった不知火海沿岸は、波の穏やかな内海で、なかでも水俣湾は魚介類の宝庫だった。新鮮な魚を獲り、野菜を作り、自然と共に暮らしていた人たちが真っ先に犠牲になった。
 

「近代化が進んだ東京で生まれ育った僕たちの世界観と、水俣病が起きた時代に水俣で生まれ育った人たちの世界観はまったく異質です。異質だからこそ、色んな物事を考える際に水俣病が大切な鏡になってくれる。近代社会は、人間が生き物として成り立った数十万年前とはあまりに違う暮らしになってしまいました。人間が人間でいることが大変で、この先どうすればいいんだ?という時に、水俣病は、近代主義が引き起こした典型であり、患者や地域の人たちが近代主義とはかけ離れたところで生活をしていたがために、私たちが問いに答えるためのヒントの宝庫なんです。追い詰められている僕ら現代人に、力を貸してくれる気がするんですね」

 

水俣フォーラムのライブラリー。水俣病に関する書籍が並ぶ。会員への貸出も行っている。
水俣フォーラムのライブラリー。水俣病に関する書籍が並ぶ。会員への貸出も行っている。

 

水俣の「核心」を、今の「言葉」にする

 

2016年、水俣病は公式確認から60年を迎える。水俣フォーラムでは、60年に向けての準備がすでに始まっている。
 

「水俣病公式確認40年の年に水俣フォーラムが誕生してから20年間、患者・支援者・専門家だけではなく、関心を持った人なら誰でも水俣病に接しやすくするために、いろんな工夫をしてきました。だけど、60年に向けては、もう一段階接しやすく、これまで届いていなかった人たちにも届くように広げていきたい。そのためにはどうしたら良いかを考えているんです」

 

時には「水俣」という名前自体が、人々の関心を妨げる障壁になってしまうこともある。水俣病は終わったこと、遠い場所のこと、自分には関係ないこと…。水俣病からそんなことを連想する人も少なくないはずだ。
 

「極端に言うと『水俣』という名前を捨てて、もう少し普遍的な言い方にすれば参加しやすいだろうと思うんですが。水俣病事件の核心を踏み外さずに、どこまで広げられるか。これをあと2〜3ヶ月で明確にしなくちゃいけないんですよ(苦笑)。言葉は時代によって意味することが変わります。かつて届いたメッセージを、今の時代に発信するとしたらどんな言葉になるか。それ以前に、そもそも同じメッセージでいいのかどうか。そういうことがとても難しいんですね」

 

水俣病に限らず、あらゆる問題の当事者や支援者は、自分たちが抱える問題をいかに社会に発信するかという課題を常に抱えているように思う。20年間、水俣病と水俣病がはらむ問いを伝え続けてきた水俣フォーラムでさえ、今もその課題に向き合い続けているのだ。
 

しかし、こうも思う。「ヒロシマ」「ナガサキ」と並んで、公害の原点「ミナマタ(Minamata disease)」として世界に知られる事件の核心を捉える言葉は、誰かが見つけてくれるものではなく、今を生きるすべての人が自ら見つけなければならないのではないか。そうでなければ、この先の道は開けていかないのではないか。
 

2016年5月1日前後には記念講演会、10〜11月には熊本で新しい水俣展が、翌17年には東京でも新しい水俣展が開催される予定だ。是非この機会に、あなた自身の「水俣」に向き合ってみてほしい。
 

※1 水俣病
熊本県最南部、不知火海に面した水俣市で起きた公害事件。化学メーカー、新日本窒素肥料株式会社(チッソ)水俣工場が、メチル水銀を含む工場廃水を水俣湾に流したことによって引き起こされた。メチル水銀に汚染された魚貝類を人間が食べたことで発症。メチル水銀は大脳皮質の神経細胞を脱落させ、四肢末端の感覚障害や言語障害、視野狭窄などの症状を招いた。また、メチル水銀は胎盤をも通過し、母親の体内でメチル水銀に侵された胎児性水俣病患者をも生んだ。患者らは、身体の障害だけでなく差別や偏見、それゆえの経済的困窮といった社会的被害にも苦しんできた。現在、認定患者は約2千人だが(そのうち存命なのは500名以下)、健康被害者数は推計10〜20万人とも言われる。2004年10月の最高裁判決で、事件の加害者としてチッソだけでなく国と熊本県の責任も認められている。
 

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この記事を書いた人

木村奈緒

1988年生まれ。上智大学文学部新聞学科でジャーナリズムを専攻。大卒後メーカー勤務等を経て、現在は美学校やプラスハンディキャップで運営を手伝う傍ら、フリーランスとして文章執筆やイベント企画などを行う。美術家やノンフィクション作家に焦点をあてたイベント「〜ナイト」や、2005年に発生したJR福知山線脱線事故に関する展覧会「わたしたちのJR福知山線脱線事故ー事故から10年」展などを企画。行き当たりばったりで生きています。