「安直な体罰問題」で教育者が生きづらい

ここ数年は花粉症の症状がなく、治ったんじゃないのか?
なんて思っていましたが、3月に入りくしゃみ、鼻水、涙が止まりません。
おかげさまでせっかくの顔が台無しです。全部花粉のせいです。全部。
花粉さえなければイケメンのけーすけ(彼女募集中)です。こんにちは。
尚、ここまでの文章に関するご意見等は一切受け付けておりません。
予めご了承ください。

 

さて本日のテーマは体罰です。
教師を目指した学生時代より、かねてから興味があったテーマ。
私自身は体罰を行った経験もありませんし、賛成派ではありません。
しかしながら世論の安易な体罰反対には疑問を抱かずにはいられないのです。
非常に繊細なテーマではありますが、教育に携わる一人として、
自分の考え方を皆さんにお伝えしていきたいと思います。

「安直な体罰問題」で教育者が生きづらい

このお話をする上で、前提として私の考えをお伝えします。

 
<前提1> 教育における「罰」の必要性
教育とは学力を向上させるだけでなく、人間形成のための指導です。
つまり間違いを切り捨てるのではなく、正しい道に導かなければなりません。
そのためには時に厳しい罰を与え、気づき・反省を促す事が不可欠です。

<前提2> 体罰≠暴力であるという点
世の中では「体罰=暴力」という風潮が強いように思えてなりません。
体罰の本質は暴力でなく「罰」であり、暴力とは全くの別物です。
過ちを犯した子どもに対して気づき・反省を促すための手段と言えます。
某グレートなティーチャー、鬼○さんが言うところの「教育的指導」なのです。

 
さてここまでが私の教育における基本的な考え方です。
その前提を元に少しお話しをさせていただきます。

 
まず教育における罰の第一歩は対話だと思います。
これはいわゆる「けーすけ君。この後、職員室まで来なさい。」というやつです。
学校によっては「指導室」や「説教部屋」に呼び出されるのでしょうか。
もしかするとこの記事をご覧の方々の中にも常連さんがいるかもしれませんね。

 
それはさておき。
そこでは怒鳴られたり、諭されるなど、叱られたはずです。
そしてその場で深く反省し、改心した人もいるでしょうし、
後々になって思い返して反省した人もいることでしょう。
重要なのはそこで過ちを認識させ、反省を通じて道を正してあげることです。
体罰の有り無しに関わらず、これが指導の第一歩であることは間違いありません。

 
しかしそれだけでは伝わりきらないというケースもあると思います。
子どもにも器用なタイプ、不器用なタイプ。勝気な性格や内気な性格。
また優等生グループ、やんちゃグループなど、1人1人に違いがありますし、
周りの環境にも大きく影響される事でしょう。
そして伝える側との相性の良し悪しも少なからず存在します。
伝わらない場合には気強く話すことも重要であり理想的ですが、
現実的にはそれだけで解決するのは難しいと言えるでしょう。

 
それではその状態に陥った場合、次なる罰はなんでしょうか。
私はここで手段として体罰が登場するのではないかと思うのです。
しかしここでは体罰を完全禁止にした場合どうなるのかを考えてみます。

 
思いつく方法論としては、謹慎、停学、留年、退学、放置などがあります。
しかしこれらの方法は教育的指導と言えるのでしょうか。私の答えは否です。
これは生徒を教え、導くという教育の本質から外れているだけでなく、
臭いものにフタをして、教育を放棄しているのではないかとすら思います。
まして道を踏み外す事に対して、著しく厳しい日本の社会構造を考慮すると、
ますます教育を放棄していると思うわけです。

 
そう考えてみると実は体罰とは絶妙なラインの罰なのかもしれません。
もちろん簡単に行使すべきものでないのは言うまでもありません。
しかし極端な話、殴られて気づかせることができるのなら、
それも重要な教育ではないでしょうか。

 
この問題の本質は、安易に体罰を批判する昨今の風潮にあると思います。
行使する教師と保護者が高いリテラシーを持ち、
明確な意図のもとであれば体罰も立派な教育的指導になるのです。
今一度、体罰について1人1人が深く考える事が必要でしょう。

 
さて、皆さんは体罰についてどう考えますか?

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この記事を書いた人

坂本啓介

小学校の恩師に憧れ、教師こそ天職と信じ教員免許を取得するも、学校教育と社会が求める教育に差を覚える。勉強を教えることだけが教師の仕事なのか?人生経験をもとに子どもたちの土台を作ることが仕事ではないのか?伝えたいこと・必要なことを、声を大にして発信することは求められていないという教師の現実に葛藤を覚える。
自分の想いを堂々と、声を大にして発信する学び場を作るべく、2012年2月、神保町大学を設立。「考えるって楽しい」をコンセプトに、通常の教育機関が言わないタブーに挑み続ける。