こんにちは、新名庸生です。今回取り上げるのは呉美保監督の『きみはいい子』です。
『きみはいい子』(2015)
http://www.iiko-movie.com/
【ストーリー】(公式サイトより)
岡野(高良健吾)は、桜ヶ丘小学校4年2組を受けもつ新米教師。まじめだが優柔不断で、問題に真っ正面から向き合えない性格ゆえか、児童たちはなかなか岡野の言うことをきいてくれず、恋人との仲もあいまいだ。
雅美(尾野真千子)は、夫が海外に単身赴任中のため3歳の娘・あやねとふたり暮らし。ママ友らに見せる笑顔の陰で、雅美は自宅でたびたびあやねに手をあげ、自身も幼い頃親に暴力を振るわれていた過去をもっている。
あきこ(喜多道枝)は、小学校へと続く坂道の家にひとりで暮らす老人。買い物に行ったスーパーでお金を払わずに店を出たことを店員の櫻井(富田靖子)にとがめられ、認知症が始まったのかと不安な日々をすごしている。
とあるひとつの町で、それぞれに暮らす彼らはさまざまな局面で交差しながら、思いがけない「出会い」と「気づき」によって、新たな一歩を踏み出すことになる―。
認知症、モンスターペアレント、虐待、いじめ、ママ友など、さまざまな生きづらさを抱える人々を描く群像劇です。ただこれは、社会問題を論じるための映画ではなく、予告編にもあるように、“どこにでもある町の、どこにでもいる人たちの物語”。確かに現代の日本を象徴するような息苦しさが描かれていますが、社会で生きていく上での息苦しさはいつの時代にもあり、全員が苦悩してきたことです。“それでも”みんな、どこかで一歩を踏み出し、前へ進んできた。その瞬間を、現代を舞台に切り取ろうとした作品だと思います。
「自分が子供に優しくすれば、子供もみんなに優しく接する」という印象深い台詞があります。“人は、自分が扱われたような方法でしか他人を扱えない”ということを聞いたことがあり、それを思い出しました。タイトルでもある「きみはいい子」という言葉。この言葉のような気持ちで他人に接しているか、最近の自分を思わず振り返ってしまいます。
生きていくうえで何か困難に出くわしたとき、何をやってもうまくいかないときに、そもそも人生は難しく辛いものであるということを私は「思い出す」ようにしています。
単純に考えて、自ら「生まれたい」と望むことなく、気づいたらこの世に誕生しており、生きることの明確な目的も与えられぬまま、やがては死ぬ存在として様々なしがらみの中で生きていかなければならない人間の一生が楽しかったり、希望に満ち溢れていたりする訳がありません。悲観的な見方をしているのではなく、この事実を認め、“それでも”生きていこうと七転八倒してきたのが人類の歴史のように思います。
咲いてすぐ散る桜であったり、華奢な女性の身体など、儚い存在に美や愛おしさを観る価値観は、やがて死ぬとは知りつつ”それでも”生きていく自分たちを鼓舞するために人類に芽生えた美意識であると私は思っています。人類が養ってきた美的感覚とは、決して偶発的に生じたものの味わい方などではなく、生きていくために本質的に必要なものであったと思います。
そういう意味で「幸せな生活」や「人生のすばらしさ」というものをいたずらに追いかけるのは蜃気楼を目指すようなものです。我々が本当に手に入れるべきものは、人生の本来的な困難を認めたうえでの「“それでも”幸せな生活」であり、「“それでも”すばらしい人生」であるからです。そう考えれば今直面している困難がむしろ糧であるように思え、一歩踏み出す勇気が出てきます。
『きみはいい子』上映情報
http://iiko-movie.com/theater/