こんにちは。新名庸生です。今回の映画は『8 1/2』です。
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【ストーリー】
映画監督グイド(マルチェロ・マストロヤンニ)は湯治場に療養にやってくる。新作の撮影準備を進めてから5か月が過ぎ、クランクインが遅れているにもかかわらず、愛人や妻、知人たちの幻影に悩まされ映画の構想はまったくまとまらない。療養中も亡き両親の姿や少年時代の思い出がよみがえり、彼は混乱してしまい…。
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巨匠フェデリコ・フェリーニの作品の中でも傑作と言われ、この映画についてはあらゆる人達があらゆる事を述べてきたと思いますが、それでもこの映画について書きたいと思ったのは私自身、「人生は祭だ」というフレーズを思い出すことで救われることが度々あるからです。
私の母は、私が20歳のときに自ら命を絶ちました。私はそれまで、自分の家族はごく普通の家族で、そのうち自分も結婚して子供をもうけ、父や母に孫を見せる日がくるのだろうと思っていました。しかしある時期を境に母の性格が変わり始め、以前の快活でよく笑う明るい母が別人のように毎日のように泣き、食事を摂らずにアルコールを飲み、風呂にもほとんど入らず「死にたい、死にたい」と言って一日中横になって過ごすようになりました。精神科にも何度か通っていましたが、効かないと言って薬は飲んでいませんでした。
その頃の私たち家族はうつ病に対する知識がなく、まるで子供のようにわがままを言う母に疲れていました。「死にたい」という言葉も、何度も聴くといちいち反応していられなくなります。そう言っていても、まさか自殺なんかしないだろうと皆思っていました。第一、明るかった頃の母は、テレビで自殺関連のニュースを見ると「何で自殺なんかするのかねぇ」とよく言っていたのです。自分の母に限って、と漠然と思っていました。
大学進学のために家族と離れて生活を始め、半年ほどたった頃、真夜中に父から電話が掛かってきました。「お母さんが死んだ」。父がそう言ったとき、まさかと思いましたが、そのまさかでした。それ以来、事あるごとに母の思い出が走馬灯のように去来し、自分の言動への後悔と、「もっと何かしてやれたんじゃないか」という思いが頭を駆け巡りました。
以前の記事に書いたように、大学院に進学後、今度は私自身がうつ病を経験します。母の辛さがこのときようやく分かりました。もしかしたら自分も近いうち自ら命を絶つかも知れない。あぁ、全然普通じゃないなぁ、自分の人生。そう思っていました。しかし、周りの人たちになんとか構ってもらいながら、そして取り敢えず始めた就職活動を通していろいろな人たちから刺激を受けるにつれ、少しずつ快方に向かうことができました。今にして思えば母の性格が変わり始めたのは看護師の仕事を辞めた直後からでした。仕事が大変と言いながら、日々刺激とやりがいを感じていたのかもしれません。うつ病の人にとって必要なのはどんな励ましの言葉よりも、その人が追い詰められたりすることなく主体的に動ける環境なのかもしれません。
母の死から十年経った今、「何かできたのではないか」という思いは依然としてある一方、母は母なりに自分の生を全うしたのではないかと思うようになりました。人生、何が起こるかわかりません。世の中にはいい人生も悪い人生も、完全な人生も不完全な人生も、普通の人生もありません。何が起こるか分からない混沌の中に私たちは生まれ、その混沌に翻弄されながら生き、死んでいきます。
『8 1/2』の中でフェリーニは人生を祭りと言います。祭りとは非日常的な空間であり、善悪という概念の消失であり、生と死の境界がおぼろげになる瞬間です。何の境界もなく、何が起きても不思議ではなく、すべてが等価値に存在します。「人生は祭りだ」というフェリーニの言葉は、断罪することなくあらゆる人生を等しく包み込む優しさに満ちており、あらゆる境遇の人々を肯定してくれる力を持っています。どんな事が起きても、人生という祭りの出来事のひとつだと思うと、それを受け入れて生きていける気がするのです。
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