福知山線脱線事故で頚髄損傷、車椅子ユーザーとなった岡崎愛子さん。

インタビュー場所に、車椅子で颯爽と現れた岡崎愛子さん。
 

現在、彼女は、新卒入社した東京の会社を退職し、今年4月に出版をする一方で、ドッグトレーニングを学び、起業準備を進めています。バイタリティに溢れ、ハンディキャップを感じさせない明るさを持つ彼女には、想像を絶するような過去があります。
 

彼女は、2005年4月に兵庫県で発生した、JR福知山線脱線事故の被害者です。7両編成の前5両が脱線、先頭の2両が線路脇のマンションに激突した事故は、700名近い死傷者を出しました。通学途中、先頭車両に乗り合わせていた彼女は奇跡的に一命をとりとめましたが、頚髄損傷で肢体不自由となり、上半身の一部にも後遺症が残ることになります。長期の入院を余儀なくされ、通っていた大学、そして社会から大きく離れることになりました。
 

岡崎さんが、自身の生きづらさ(障害)とどのように向き合い、受容していったのか、当事者の生の声を聞きました。
 

岡崎さん①
 

「事故から最初の1ヶ月は肺挫傷による呼吸困難で、体が動かないことを考える余裕なんてありませんでした。ようやく呼吸の状態も良くなってきた頃、徐々に体が動かないことを認識し始めました。先生や家族は何も言いませんでしたが、体が動く気配がなかったので、自分の中では、もう動かないというのはわかっていたと思います。だけど、ハッキリと『もう歩けなくなる』と言われた時には、自分の中ではわかっていた結論だったけれど、あらためて言われるのはしんどくて、ずっしり重いものを感じました。『あの日、遅刻していれば』とか『あの授業を取っていなければ』とか。答えのない問いで頭の中はいっぱいでした。『あのまま死んだ方が良かったんじゃないか』と本当に人生に絶望していました。でも、そんなある日、先生に『家族は、命だけは助けてくれって言ってくれたんやから、ちゃんと生きなあかんで』と言われたんですね。その言葉にハッとさせられて、『死んだ方が良かった』なんて思わないようにしようと決めました。」
 

事故についてはある程度の受容は出来た、と言う岡崎さんですが、また別の生きづらさを感じることになるのは、それからだったと告白してくれました。その生きづらさは何なのか、そしてその生きづらさをどのように受容していったのでしょうか。
 

事故に遭った岡崎さんが抱えた生きづらさとは?

 

①377日の入院生活で社会と大きく離れてしまったこと。

②「移動困難」「人の介助が必要」な車椅子ユーザーになり、「できないこと」ばかりに目がいってしまったこと。

③せっかく復学をしたのに、車椅子ユーザーであることに引け目があって、コミュニケーションに壁を感じたこと。事故後、大学ではなかなか新しい友達が出来なかったこと。
 

「私は負傷者の中で最長の入院期間でした。事故から2か月が経って、毎日リハビリしてはいましたが、それ以外は特にやることもないので、テレビやDVDばかりを見ていました。友達はこれまでと変わらず学生生活を送っているのに、私は病院にいるしかなく、社会から離れてしまっていく焦りは大きかったです。実際に、勉強などは大きく遅れることになり、挽回はすごく大変でした。さらに、車椅子ユーザーになることで、『移動が困難』や『人の介助が必要な生活』など、『一人じゃ生きられない』というやるせない気持ちが渦巻いていました。もちろん、たとえ健常者だって一人で生きているわけではないのですけど、当時の自分はそうした思いが強くありました。『できないこと」ばかりを悲観していたことが、後々の生き方に影響しました。」
 

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「それでも、リハビリを頑張り、周囲の方々の厚い支援のおかげで、車椅子での通学が可能になりました。待ちに待ったキャンパスライフへの復学です。緊張しながら、慣れない車椅子で学校に行き、仲良しだった友達と再会できた時は本当に嬉しくて、声を上げて喜び合いました。感動の再会です。だけど、大きく話題になった事故だったので、当然、私が被害に遭ったことは学校中が知っていました。だからなのか、顔見知り程度の人は私にどのように声を掛けて良いかわからないようでした。私自身も、そうした人たちへどう話していいかわかりませんでした。お互い様なのですが、何となく気まずい雰囲気が漂っていることを感じました。結局、そうしたことが続いて、復学してから卒業まで新しい友達がなかなか出来ませんでした。もったいなかったなと思います。他にも、本屋さんに行って、欲しい本があっても車椅子ユーザーの自分では手が届かない時、店員さんに話しかければよいのですが、それが出来ずに、結局、本を買えずに帰ってしまうなど、とにかく人に話しかけることがうまくできませんでした。まだまだ、車椅子ユーザーであることに慣れておらず、どうしたらいいかわからなかったのだと思います。今だったらもっとうまくやれますね。」
 

「今だったらもっとうまくやれる」という一言は、生きづらさを受容し、乗り越えたからです。「乗り越える」という言葉よりは「考え方、捉え方を変えた」という言葉のほうが適切かもしれません。
 

岡崎さん流の生きづらさへの考え方、捉え方

 

①「できる」を見るようにする

②勇気を持って環境を変えてみる
 

「体に後遺症が残ってからは、『友達とも旅行に行けない』『スノーボードもできない』などとできないことばかりを考え、自分は何もできなくなってしまったと思い込んでいました。その気持ちの在り方が、生活にもマイナスに影響していました。でも、ある日、リハビリの先生が携帯電話のボタンを打ちやすいように、装具を作ってくれたことがあり、今まで操作が大変だった携帯がとても使いやすくなりました。『小さな工夫でできることはたくさんあるんだ』と気づいたんです。『できること』を見るように変えてみたら、『できること』はたくさんある!と気づいて、『後遺症は残ったけれど、やり方を変えてみたらいいんじゃないか』と思えるようになりました。これまで悲観ばかりしていたのに、心がスッと軽くなったんです。もちろん、すぐに考え方を切り替えられたわけではなく、徐々にですけど。」
 

岡崎さん写真②
 

「大学生活も終盤となり、就活の時期になりました。私も周囲に合わせて就職を希望しました。よく就職しようと思ったねと言われるのですが、脱線事故のせいで就職ができなかったと思われたくなかったのと、自分の人生に脱線事故がついて回るのが許せませんでした。私、負けず嫌いなんで。就活はまず、私のような障害レベルの求人があるかどうかを企業に問い合わせて回りました。自分だけじゃ時間が足りないので、大学の学生支援センターの方に積極的に手伝ってもらえるようにお願いしました。あの頃から、少しずつですが、素直に人にお願いすることができるようになっていたのかもしれません。当初は大阪で就職するつもりでしたが、(当時の)大阪では私のレベルの障害者を雇用してくれそうな会社が少なく、結果的に、求人数の多い東京での就職が視野に入り、いくつか内定をもらうに至りました。人の介助が必要な生活をしているのに、知っている人が一人もいない東京に出ていくわけですから不安はありましたが、『一生に一度の機会。東京に行ってみたい』『新しい自分や生活に出会ってみたい』という気持ちで東京行きを決めました。就職先の会社は障害者雇用が進んでおり、配慮はするが特別扱いはしないというポリシーの中で仕事ができたので、自分の障害を意識することはほとんどありませんでした。恐らく、あの環境で働けたことも、生きづらさを受容するきっかけになったと思います。」
 

大阪から東京に拠点を移した岡崎さん。一から人間関係を構築していくことは、当時の自分自身にとっていいリスタートになったとも言います。今までのコミュニティの中でゆっくりと回復していく場合もあれば、新しいコミュニティに加わることで再スタートを切る方もいます。どちらがいいというわけではなく、自分に合った人間関係づくりは大事なのかもしれません。
 

生きづらさを感じていた頃の自分と今の自分を比較して

 

①「障害者のイメージが変わった」と言われるようになった

②脱線事故被害者ということに抵抗が薄くなった

③夢としか思っていなかった「起業」に対して、真剣に取り組むようになった
 

「私は、元々、外に出ていくのが苦にならない人間です。障害を負った当初は、物理的に困難であったり、遠慮がちな部分がありましたが、今では、参加したい講演やセミナーがあると、自分から積極的に主催者に問い合わせ、車椅子ユーザーでも入れる会場かを確認します。『初めて障害者から問い合わせがあった。こんな外に出ていく障害者を初めて見た』と言われることがありましたが、それだけ『障害者は内に閉じこもっている』というイメージが、世の中には根強くあるのではないでしょうか。」
 

2015年4月2日(この記事の公開日!)に発売を開始した岡崎さんの本「キャッチ!」

2015年4月2日(この記事の公開日!)に発売を開始した岡崎さんの本「キャッチ!」


 

「この4月(記事の公開日である今日、4月2日)に出版します。今年はあの脱線事故からちょうど10年です。テーマは、事故からこれまで走り続けた10年について綴った本なのですが、企画は私から持ち込みました。これまでは、自分から積極的に脱線事故の被害者とは言いませんでした。というのも、脱線事故があまりにもインパクトが大きすぎて、『岡崎愛子』ではなく、『脱線事故の被害者』というフィルターを通って見られるのが嫌だったからです。でも今は良い意味で事故への関心も薄れてきました。私が脱線事故被害者だと言っても『そうなんだ』と言われるくらいで、気持ち的にずいぶん楽になりました。それは、私の中で、事故についての意味付けがしっかりできているからだと思います。」
 

味噌会社の社長をやっていた祖父の背中を見て育った岡崎さんが起業に興味をもったのは自然の流れなのかもしれません。「事故にあったことで人生は1回きりと真剣に捉えられるようになった」という言葉も挑戦の裏づけです。
 

生きづらさを感じている人たちへのメッセージ

 

①「できること」を見る

②自分から動く

③とにかく楽しむ
 

「『障害を負ってしまったから〇〇できない』と諦めるのは簡単だけど、だからこそどうやったら出来るようになるかを考え、自分から行動を起こしていくことが重要なんじゃないかなって思います。身体が健常の人だって、自分には出来ないと思いこみ、諦めている人は多いのではないかと感じています。むしろ動かなくなってしまってからの方が、出来ることが絞られる分、明確になるかもしれません。あと、やっぱり人生1回きりだから、どんな状況でも楽しんでください。私、今、とても楽しいですよ。」

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