保育園のお迎えに集まる母親たちのヒソヒソ話、通夜や葬式の給湯室でのおばさんたちのコソコソ話。誰かや何かの話をしているのだろうけれど、その大半は目立つ人、気になる人の悪口なんだろうなぁ…と思ってしまいます。
ヒソヒソコソコソは、話の内容を悟られないためのカモフラージュなのだろうけれど、周囲からは結構目立ちます。目立つけれど、その話に参加しない場合は、内容を察して見て見ぬふりをしなければならない。これは、ほぼ暗黙の了解。
こうしたことは決して女性に限った話ではないのでしょうが、私のまわりでは女性のヒソヒソコソコソが日常茶飯事でした。それは学生の頃も社会人になってからも変わらず、大抵は部屋の片隅ですごい存在感を放ちながら行われます。
その姿は、まるで一生懸命に周辺の環境に擬態しようとして、なかなかできずにいる昆虫や海の生物に似ています。少し面白い。そして、さらに面白いなと思うのが、私もときどきそういった女性になってしまうということです。
『女子の人間関係』では、女性が持つ、そういったちょっと面倒くさい部分を「女」とカッコつきで紹介されています。
女性同士の付き合いの難しいと感じる背景をよく考えてみれば、そこには「女」の要素が見つかることがほとんどだと思います。
女性同士の人間関係を混乱させる「女」の要素なら、いくつでも挙げられます。
男に媚びる、すぐに敵味方を作りたがる、自己防衛が激しい、被害者意識が強い、お節介、気分屋、健気さを装う「女」たち。
あ〜、分かるなぁと思うのは、私の中にもそういう「女」が存在するから。だから、たまに自分が大嫌いになるのですが、「女」を制御することはなかなか難しいんです。「やらなきゃやられる」そんな言葉が頭の中に浮かんできます。
ただ「女」を無視してやり返さなければいいだけなのかもしれません。
「女」がでてこなければ、もう少し人間関係を円滑に築けるのでは?とも思います。そもそもなぜ「女」は生まれるのだろう?という疑問に、この本はこんな風に回答しています。
実は「女」が持つ特徴の多くが、虐待やいじめなどにより他人から傷つけられてきた人たちに見られる特徴と共通しているのです。(p18)
例えば、いつも自分を否定されて育ってきた人は、自分の意見と違う意見を持っている人を見ると「自分が否定された」と感じがちだということが知られています。(p18)
虐待、いじめと聞くとどきりとします。そして、なるほどと思ってしまうのは、子どものころに母から否定された経験が、今も自分の中に強く残っているからです。
「女の子だから」「大人しい子だから」と性別や性格を理由に禁止されてきた様々なこと。それでもやろうとすると、母から軽蔑するような視線を向けられたこと。
生まれてから一番最初に一番親しくなる女性に、自分を否定されたり軽蔑されるというのは、なかなか辛いことです。今更責める気はありませんが、私の「女」ができる土壌には母の存在が大きく関わっていたと思います。そして恐らく「女の子なのにそんなことをして…」と私の行動を嫌った母の「女」も、身近な女性たちによって作られたのかもしれません。
文中では「女」とうまく付き合っていくには「女」を癒し「女」を手放すことが大切だと書かれています。
「女」を癒すことはできそうだけれど、可愛がってもらうために、疎外感を感じないために、仲間として認めてもらうために「女」を演じてきた私にとっては「女」を手放すのは結構勇気がいることです。それでも、せっかくの機会なので、まずは母に対してアクションを起こしてみようと思います。