2016年春。大学入学のために上京してきた私は、圧倒的な懸案事項に押しつぶされていた。
どんなサークルに入るか、自分がどんなポジションでいるか、誰と行動することが正解か、そんなことばかり考えていた。自由と引き換えの帰属意識の無さが不安で不安で仕方なかった。
そんなとき、服装の問題がとっても大きくのしかかってきた。
毎日毎日私服を着る生活。幼稚園から制服に身を包まれていて、出かける場所も服を買う店も限られている地方育ちの私には、あまりにもハードルが高かった。
今日は何を着よう、どんな服だと周りから浮かないかな、ダサいと思われるのは無理。そんなことを考えていると、1限目の開始が近づいてくる。時間切れ。先週と代わり映えのしない服を着て、学校に向かう。
結果、生まれたのが量産型女子。必修の授業はデニムのGジャンとカーキのMA-1のコントラスト。全然、キレイな色じゃなかった。
そりゃそうだ。みんな似たような雑誌を読んで、似たような店で服を買って、似たようなコーディネートをするんだから。みんなが着ている服は正解じゃないかもしれないけれど、絶対的に間違いではない。
みんなと同じという気恥ずかしさもあったけど、みんなと一緒の安心感が私は欲しかった。「みんな」に同化することは、有害な人物ではないと伝えられる手っとり早い手段だった。
紙媒体は終わりだと言われることもあるけれど、それがたとえ付録目当てだとしても、雑誌はちゃんと売れ続けてる。インスタの #服好きな人とつながりたい のタグが広がり続けてる。有名な誰かが言ってたオススメのアイテムはすぐに売り切れになる。街の女の子たちは同じようなフォルムで歩いている。
「多様性」なんて言葉が流行りのこの時代でも、みんな、正解を求めてさまよい続けている。ほんとは、正解なんてないのに。
身にまとうものは、分かりやすく自分を伝えるツール。どんな服が好みかによって、その人の人間性や目標、ライフスタイルが伝わるのではないかとも思う。
12cmヒールを履く人はきっと華やかなお店をたくさん知っている。綿や麻のワンピースを着て、カゴバックを持って、ぺったんこサンダルの人は丁寧な生活を送っている、ような気がする。
それは、自分がイメージをまとうという意識で洋服を選んでいたから。なりたいイメージ像があるということは、正解や目指すべき目標があるということ。私は無害で、そこそこスタンダードなカルチャーに興味があって、接しやすい人間だと思われたかった。
だから、Gジャンに膝丈のスカートを履いた。MA-1とワイドパンツにもずいぶんお世話になった。抵抗ない程度の流行に乗った服を着ていれば、そんな風に思ってもらえると信じていた。たぶん、その作戦は成功していた。
同じような雰囲気の子や服を着た子と会話することは簡単。ゆるっとしてて愛嬌のある1年生として、先輩たちからも可愛がってもらえた。ただ、それは少し退屈で、なんだか窮屈な時間だった。
いつ、その時間を卒業したのかは覚えていない。大学という場所に通い慣れて、学外でもいろいろな人に会って、その人たちが着ている服を見続けた。
昨日は白シャツデニム、今日は花柄のAラインワンピース。どんな服を着てたって彼女は彼女で、好きなものを好きと言える芯を持っていた。ロックで赤髪の彼はいかにもって感じだったけど、鋭角な意見を持ちつつ、人の意見を慮る柔らかい人だった。
そんな風に相手と着る服を眺めることを繰り返して、私は、自分が好きな服というのが分かってきて、服がその人の好みや人間性の全てを指し示すわけでは無いことが分かって、呪いみたいなイメージから解放された。
今でも、服を選ぶ1番のポイントはなりたいイメージに合っているかどうか。でも、もう窮屈じゃない。それはみんなからの正解に見えていたイメージを捨てて、自分の正解を見つけたから。その正解と自分の内面は必ずイコールじゃなくても良いことにも気づいたから。ついでに、人はそんなに他人の服を見ていないということも。
4年生になって、自分のポジションも、誰といるといいかの「誰」も、少しの図々しさも手に入れた。
1年生の頃を知っている人たちは「変わったね」って言う。笑いながら「こんな子とは思ってなかった」って言う。それがとても嬉しい。
GジャンもMA-1も、もう2年くらい着ていない。もともとあんまり好きじゃなかったし、今は気恥ずかしさが勝ってしまう。でも、今でもクローゼットの中にある。今の私の方が好きだけれど、あの頃の私だって精いっぱいだったことを覚えているから、捨てられないんだと思う。
ライター:大竹結花