「男子が女子の制服着てるのかと思った。」
中学校に入った初日の朝、まだ知りもしない女子生徒から何の気なしにかけられた一言。
慣れない制服に身を包み、どんな新生活になるか緊張しながら登校したのに、この一言で私の期待は7割減。憂鬱なスタートでした。
当時の私は入学時点で160cmをちょっと超えるくらいの身長があり、成長期前の男子より背が高いくらい。髪型もショートカットで運動部所属のいわゆるボーイッシュ?男勝り?な女子でした。スカートは制服以外ではほとんど履いた記憶がありません。というか持ってすらいなかったと思います。自分が履いて似合うものだとどうしても思うことができなかったからです。
そんな背景もあってか、思春期から大学の頃までは、男性に間違われることが結構ありました。
その度に「自分では好きでしてるけど、こういう格好が良くないのかな」という自己否定と「まぁそう見えてもしょうがないのかも」という諦めと「でも私だって女子なんだけどな」という抵抗と、なんだかいつもモヤモヤさせられます。
少年アヤさん著の『尼のような子』は、このモヤモヤした生き物の姿をぐりぐりと抉り出してくれた気がします。軽快でいて愚直な文面が綴っているのは、私たちが心底求めるものであり、だけど求めても求めても手に入らないもの。
アイドルのタクヤを追いかける自分と、ランウェイのモデルに歓喜し同時に絶望する少女たちの共通点として浮かび上がったのは、
強烈なあこがれと、劣等感。(『尼のような子』少年アヤ p.183、祥伝社)
そして、少年アヤさんはこう感じます。
どれも欲しかったのに、手に入らなかったものだった。私は、タクヤになりたい。もしタクヤみたいに美しかったら、人生はどれだけ明るかったろう。おそらく誰からも暴力を振るわれることなく、恋も必ず成就したはずだ(同上)
たかがスカート。されどスカート。
私にとって、スカートを履くということは強烈なあこがれと同時に、ものすごい劣等感を感じる対象だったのだろうと思います。
頑張って履いても、今までのように似合わないと言われたらまた傷つくので、それが怖くて今もあまり手が出ません。しかし同時に、スカートが履ける人生は、もっと生きやすいものなのだろうなと思っている自分に気づきました。
私たちは無意識のうちにあこがれに鼓舞され、劣等感に苛まれ、その間でのたうちまわりながら生きているし、きっとこれからもそうなのでしょう。でも、結果はどうあれ、このうねりは私たちを何かに向かって突き動かすものでもあると思います。
悩んでももがいても手に入らないものはあるし、あるいはそうしたからこそ手に入るものや気づきもあります。どちらが良い悪いということではなく、そうやって生きていくことも私たちの性(さが)なのかなと思うのです。