「障害者の性」をタブーとしているのは誰か? 坂爪真吾『セックスと障害者』

セフレがたくさんいる障害者もいれば、不倫する障害者もいる。ヤリチンの障害者もたくさんいますよ。
 

昨年開かれた「生と性のバリアフリーフォーラム」に登壇した際、そんなことを話していたら、来場者の7割くらいがスーッと引いていき、3割くらいが食いついていたことを思い出します。「障害者の性」について考えるイベントでセフレや不倫、ヤリチンといったような言葉を使うと、一定数からは嫌悪感を示されるんだという複雑な気づきを得てから1年、あのときに私が話していたことが坂爪真吾さん著の『セックスと障害者』という本の一部にしたためられました。
 


 

私自身「性のお悩み」と言えば、一時期経験したED(勃起障害)であったり、早いと思われるのが嫌だなと思ったりという、一般男子が持つような悩みばかり。それも深刻に考えるのではなく「ヤバい、早いかも」というようなチャラく考えるようなものでした。義足を履いていたり、両足が一般とは程遠いシルエットをしていたりという身体障害者であるものの「障害者の性」を生真面目に考えたことはありません。
 

フォーラムにおいても、この本においても、「障害者の性」はタブー視されていた過去があると語られています。それはいびつなほど神聖化されているテーマのようにすら感じます。例えば、障害のある人は「そもそも性的欲求がない」と考えられていたことがあったというのは驚きでしかなく、「俺、障害者なのに全然当てはまらない」という気づきには何とも言えない気持ちになりました。
 

障がいのある人は、「そもそも性的欲求がない」「純粋な天使」「永遠の子ども」というイメージで語られることがあります。一方で「障がいのために恋愛もセックスもできない、かわいそうな性的弱者」というイメージで語られることもあります。(プロローグ 5頁)

 

本の冒頭に書かれている嘘のようなホントの話。私自身、性的欲求がないとか考えられないし、かわいそうな性的弱者とも思われない。むしろ、ちょっとくらい性的弱者と思われてみたいくらい。「障害者」という言葉が使われていても、そこに含まれない障害者がいるのは複雑な話です。言葉狩りと言われそうですが、対象を明確化、具体化することは大事です。
 

このプロローグにある「障害者」というイメージは、知的障害児・者やそれ以外の障害児とイコールのような感覚。そもそも障害者を年少者と同等な感覚的に扱っているならば「障害者の性」の話に蓋をしていることも分からなくはありません。こんな世界観の中にセフレやヤリチンという言葉をぶち込めば、波が引いていくような感触を覚えるのは当然の話です。
 

最近あった有名障害者の不倫問題とそれに対する反応は、この世界観に一気に穴を開けてしまったものなのでしょう。不倫した有名人がたまたま障害者だったと捉えるのか「障害者だって不倫くらいする」と言うのか。障害者に対する純潔的なイメージを良くも悪くも壊した乙武さんの衝撃は大きいものだったんだなと、この本を読んで改めて感じます。
 

おとたけさんいらすと。
 

タブー視されていたことは「障害者の性」に関する諸問題が語られなかったという不利益の発生と同時に、障害者の清いイメージを作り上げることに一役買っていたことを意味しています。なんだ、障害者も変わらないんじゃないか。その発見は平等感を生み出すと同時に、イメージによって守られていた世界がだんだんと崩れていくことにもつながります。
 

いいことなのか、もったいないことなのか。障害当事者内でも判断が割れそうな気がします。
 

セックスと障害者
 

里美さんは生まれつきの脳性まひで、両手足に重い障がいがあります。(中略)事件が起きたのは入社して2年目の秋でした。社内旅行の帰りに上司である係長に強引にホテルに連れ込まれ、カミソリで脅されて体中の体毛を剃られた後、性行為を強要されました。里美さんは脳性麻痺による不随運動などの障がいのために激しく抵抗することができず、押し倒されたら自分で起き上がることは困難です。(149頁)

 

障害者の性犯罪(レイプ)の話もこの本には記載されていますが、障害者はその障害が背景で性犯罪に巻き込まれるリスクがあります。ただこれは被害者だけではなく、加害者となることもあります。性的欲求や感情をコントロールできないリスクは、障害によって増す場合もあるのです。
 

性犯罪に関して記載されている章は、人によっては目を背けたくなる情報かもしれません。性産業に従事している障害者の話、LGBTと障害者というダブルマイノリティの話などがこの本には記されていますが、障害者に対する知識を増やす上ではなかなかディープなものが続きます。
 

バリアフリーや合理的配慮といった障害者が社会で暮らしやすい状態を作るための概念の範囲内には「性の問題」も当然含まれます。人間の3大欲求のひとつにも含まれているにも関わらず、当事者や家族、支援者が、偏見や思い込みによって性に関する情報を毛嫌いしているならば、問題解決への流れを塞き止めてしまっています。
 

タブー視されていたことは、社会として扱いづらい問題だった、公開しづらい問題だったという過去を証明しています。しかし、今は割と扱われている、公開されている時代です。坂爪さんが最近「性」に関する本を多数出版しているのはその一端でしょう。社会が受け取りづらい問題かもしれませんが、この問題に携わっている本人の防衛本能によって公開しづらいと考えているならば、それはもったいないことです。また、タブー視されていたことで、この問題に携わっている人を偏見から守っていたのかもしれません。
 

20160520
 

「障害者の性」の問題に限らず、障害者の抱える諸問題はその取り扱いが難しいことが往々にしてあります。当事者を傷つけてしまうのではないか、事実が曲解されてしまうのではないか、イメージが悪くなるのではないかなど様々な懸念があります。発信しなければその懸念が的中することはありませんが、誰もその問題を知らないという状態が続きます。
 

最近、経営者交流会などで障害者に関する話をすることが増えてきましたが、一般の人たちは本当に障害者のことを知りません。どんな種類があるのか、どんな困りごとがあるのか、ほとんど知りませんし、障害者って働けるの?(←いや僕は?)とか障害者もセックスできるんだ〜!(←いやいや僕は?)とかそんな声すら挙がります。社会の無知を叱るのではなく、届けられていない自分たちを戒めなくてはいけません。
 

コミュニケーションの風通しの良い社会は、障がいのある人とその家族だけでなく、障がいのない人にとっても、息をしやすい、生きやすい社会であることは間違いありません。「パンドラの箱」から「半透明のクリアボックス」にしていくためには、障がいのある人の抱える問題、そして障がいのある人の家族が抱えている問題を家庭内だけに押し込めずに、地域全体、そして社会全体で支えていくための仕組みづくりが必要です。(123頁)

 

タブー視されている状態を「パンドラの箱」と呼ぶならば、それを「半透明のクリアボックス」にするというのは重要なアプローチです。半透明のうちではフィルター(偏見)が加わりそうですが(かといって完全透明は気持ち悪い気もします)、少なくとも今の状態よりは前に進むでしょう。
 

私自身、「障害者の性」に関する話題が、例えば下ネタの一種のように、会話の一コマに使われたならば、この問題はだいぶ解決に近づいてくるのではないかと考えています。その使われ方に嫌悪感を示すならば、それは真面目すぎます。誰が好き?的な話は中高生の帰り道の話題のようなもの。「障害者の性」を気軽なテーマに持っていくというポジショニングが重要なのではないでしょうか。もちろん、障害の種類や程度もあるので、全体論では括れませんが。
 


 

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