私の当たり前は、私だけの当たり前に過ぎない。DJ社長の炎上商法から学んだこと。

7月中旬に、Twitterでパワハラ炎上騒動が起きた。
 

7月17日に事務所の社長であるYouTuberグループ「レぺゼン地球」のDJ社長からパワハラ・セクハラを受けていると、タレントのジャスミンゆまがTwitterで告発。
 

翌18日にDJ社長は謝罪動画をアップ。パワハラ・セクハラを事実と認める。
 

しかし20日、告発が新曲のプロモーションであったことを発表し、虚偽の告発であったことが分かる。その後、批判が殺到し、関係者が謝罪。新曲動画も削除されたという一連の騒動である(詳しい経緯を知りたい方は調べてみてください)。
 

※参照例:キャリコネニュース
https://news.careerconnection.jp/?p=75532
 

私もそのツイートを見て、パワハラが行われていたLINEの文面に嫌悪感を覚えたし、ジャスミンゆまさんの告発を勇気ある行動だと思った。
 

だからこそ、炎上商法であったことも、プロモーションだと分かった後の彼ら彼女らの煽るような態度もとても腹立たしかった。
 

セクハラ・パワハラを炎上商法の材料とした危うさについては、多くの方が私よりもきちんと主張してくれていたし、今さら、SNSの信ぴょう性なんて話をする気はないけれど、このことを書きたいと思ったのは、この件を称賛しているコメントとピントのずれた謝罪文を見て、いまだにモヤモヤが整理できなかったから。
 

分かり合えないことを分かる
 

「やられた」
「さすが(DJ)社長、スケールが違う」
「ウソでよかった!活動再開してくれるの本当に嬉しいです!」
 

肯定していたコメントはだいたいこんなところ。衝撃的。彼ら彼女らの中で、この一連の騒動はエンターテインメントでしかなかった。
 

関係者の想定も、エンターテインメントでしかなくて、炎上商法大当たり!と大満足だったのかもしれない(かくいう私だって書いているし)。
 

思いがけず火が立ちすぎて慌てている?でも炎上するって想定していたということは、良くはないやり方だと分かっていたということ?
 

私にとっては、#MeTooも#KuuTooもパワハラもセクハラも、もっというと性的被害やLGBT、フェミニズム、ジェンダー論といったテーマも近しいものだった。
 

自分が体験していようがしてなかろうが、女性性に関わるものについて自分が考えることや自分の意見を持つことは当たり前の感覚だったし、その延長で男性性について考えることも私には自然だった。
 

表立ってフェミと名乗ることはないし、自分のことをフェミとは思っていないけれど(これについてもいつか書きたい)。
 

私のTwitterのフォロワーさんには、それらについて考えている方々がたくさんいらっしゃって、自分の体験や問題意識から声を挙げる方も徐々に増えてきていて。世の中的にも話題として取り上げられやすくなっている、意識が向いているのだと思っていた。
 

しかし、私が見ている世界のスタンダードが狂っていたのかもしれない。
 

分かり合えないことを分かる
 

プラス・ハンディキャップでは「分かり合えないことを分かる」という言葉がよく出てくるのだけれど、今回気づいたのは、まさにそれ。
 

自分と彼ら彼女らが見ている世界はあまりにも違いすぎていて、少なくとも私は、その世界がさっぱり分からなかった。賛成とか反対とかではなく、そもそも自分の世界にないものをどう認知すればいいのか。ないものを証明するのは悪魔の証明、インドの0は世紀の大発見である。
 

私の世界が間違っている、悪いものだとはまったく思っていなくて、そしてまた、彼ら彼女らの世界も間違ってない、悪くもない。ただ、分かり合えない。交じり合わないだけ。
 

この分かり合えなさが生まれる理由を無知という言葉だけにまとめたくはない。
 

いつだったか、妊娠・出産について友達と話したことがあった。「いつか、自分も」と思っていた私と「生む事を想定していない」彼女とでは、知っていることがずいぶん違っていて驚いた。そのずれは知識量の差ではなかった。
 

飲みの場で、どうしようもなく不快なことを言われたとき、その言葉を流さずに抗議したことがあって、近しい関係性だからこそ、許されると思って言った相手と、許されるだろうと思って言ったんだよねと分かっている自分がいた。
 

仲が良い相手だからこそ、不快だったことを毅然と伝えたけれど、全然伝わらず、そもそも、私が何に怒っているのかも分かっていなくて、考えすぎだとあしらわれた。近しい関係性でも分かり合えないことはあるのだと気づいた。
 

ただ違う、というだけ。認識も知識もそこから生まれる行動も、ただ違う。
 

分かり合うなんて簡単じゃないし「ただ違う」と認め合うことも簡単じゃない。分かり合えないものは分かり合えないし、多様性なんて一個人に生まれるものではないのかもしれない。
 

それでも、諦めたくないから文章を書くし、声を挙げるし、ムーブメントを起こしたい。分からないままでいいから、知ってほしい。気づいてほしいと願う。これもまた「理解」の押しつけになるのだろうか。
 

問題が起きることで世界が交わる機会が生まれるという一点においては、炎上商法というのはありなのかもしれない。もちろん、もっと良い方法はいくらでもあると思うのだけれど。
 

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この記事を書いた人

大竹結花