私が社交不安障害を発症したきっかけと、その後。

今から7年ほど前の高校生の私は、他人とのコミュニケーションなんてまったく苦にしませんでした。それどころか、人前でみんなを笑わせたり、喜ばせたりすることが好きなタイプでした。
 

「陽キャラ」ちょっと昔でいうところの「リア充」。表向きはそういうタイプの人間でしたが、当時から考え込みやすいネガティブな性格で「相手が今、何を考えているか」ということを過剰に気にする癖があり、それは、自分が「面白いやつ」であるために必要なものでした。
 

高校を卒業するまでは、この癖が大きくプラスに働いていましたが、浪人、大学進学を経て、年齢を重ねるにつれて、その癖は自分を縛る枷になっていきました。
 


 

私が社交不安障害を発症した日にちは、おおよそピンポイントで特定できます。2016年の3月31日から4月8日までの9日間。この9日間のうちのどこかのタイミングで、私は「それまでの私」から「人と上手く関われない私」へと、くるりと変化しました。
 

その期間、私はとあるボランティアに一人で参加していました。上昇志向の強かった私は、このボランティアを通して、いろいろな出会いや経験ができるはずだ、と期待に胸を膨らませていました。
 

しかし、ボランティアが始まってから数日が経ったころ、「色んな出会いがあるはずだ」と息巻いていた私は、ボランティアの参加者の中で、ひとり孤立していました。誰とも打ち解けられていなかったのです。
 

こうなってしまった具体的な原因は未だに分かりません。何か嫌われるような発言や行動をしたわけではありませんし、誰かの悪意を感じたこともありませんでした。みんな良い人たちでしたが、ただただ自分が浮いているという感覚だけがありました。
 

あっという間に9日間が経ち、ボランティアが終了したときには、もう「人と上手く関われない自分」が完成していました。
 

最終日の夜、充実感に満ちた顔をしている他のメンバーを横目に、私はそそくさとひとり輪を抜け出し、その日の宿となるネットカフェへと向かいました。受付を済ませ、個室で横になった途端、涙が止まらなくなりました。
 

悔しくて、悔しくて仕方がなかったのです。あれほど意気込んでいたのにも関わらず、誰とも仲良くなれず、他人を避けながらやり過ごしただけの自分が情けなかったです。
 

それだけではなく、ボランティアに参加する以前の、今まで生きてきた自分のすべてが、どうしようもなく惨めで、可哀想に思えてきました。結局、その夜は一晩中泣いて過ごしました。
 


 

この経験が単なる「苦い思い出」として終わっていれば良かったのですが、本当に苦しいのはそれからでした。
 

その後すぐに春休みは終わり、再び大学に通う日々が始まりました。以前から学内で共に行動をしていた友人2人と、久しぶりに再会したとき、得も言われぬ不安を感じました。微妙に居心地が悪く、胸のあたりが息苦しかったのです。
 

友人と別れるとその感覚は収まりましたが、家で一人になると、ボランティア最終日の夜にネットカフェで感じたのと同じような漠然とした悲しみが襲ってきました。それから、毎晩2〜3時間ほど泣き続ける日が続きました。昼間に大学で友人と会う時の息苦しさも、日ごとに増していきました。
 

そんな生活が1ヶ月ほど続いて、ようやく「これは何かがおかしい」と気付き、兄に電話で相談をしたところ病院に行くことを勧められ、その指示に従いました。それから、カウンセリングと投薬による治療が始まりました。
 

ちなみに、このときには具体的な診断名等は告げられませんでした。正式に「社交不安障害」と診断を受けるのは、それから二年後、新卒で入社した会社を辞めるときのことです。
 

以上が、私が社交不安障害を発症したきっかけから診断を受けるまでの経緯です。
 


 

きっかけとなったのは9日間のボランティアでしたが、その何年も前から、社交不安障害を発症するための準備は、少しずつ、着実に、整っていたように思います。「きっかけ」は一瞬のことでしたが、「原因」は私の中に深く根ざしているものでした。
 

相手が今何を考えているか、この場は何を求めているか、それらを気にして気にして、考えて考え抜いた結果、人が面白いと感じるような、相手を喜ばせるような発言や行動ができていました。
 

「この空気感の、このタイミングで、この発言をしたら絶対にウケるはず」
「相手がこういう状況だから、この言葉をかけてあげると嬉しいかも」
 

このようなことを考えるのは、きっと私だけではないと思います。「相手が何を求めているのか」を考えること自体は悪いことではありませんし、この考え方のおかげで実際に相手に喜んでもらえたこともありました。そのことは、私にとって小さな成功体験として積み重なっていました。
 

ただ、「人の気持ちを気にすること」は一定のラインを越えたときに「人は自分のことをどう思っているのだろうか」にこだわるという歪んだ形に変わり、自分を追い詰めるようになっていきました。いつからか、他人と関わることそのものが苦痛に感じられるくらいになってしまったのです。
 

そして、その「生きづらさ」を抱え込んでいたせいで、10代後半から20代前半までの貴重な時期を思うように過ごせなかったということもまた、大きな劣等感として自分に苦しみを与え続けています。
 

「あの経験があったからこそ…」と、開き直って前向きに進んでいくことも、今のところできそうにありません。未だに、その生きづらさのド真ん中から脱け出せないでいます。もはや、自分の人生を自分の手で主体的にコントロールしていくことは、難しいと感じています。
 

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この記事を書いた人

のむら