やっぱり私にはカミングアウトが難しい。「イチゼロイチイチ~私立バブリング学園マイノリティ科~」イベントレポート

10月11日の「国際カミングアウトデー」に合わせたイベント「イチゼロイチイチ~私立バブリング学園マイノリティ科~」が10月9日に代官山で行われました。このイベントは、マイノリティの方のカミングアウトを応援するNPO法人バブリングが主催しています。
 

3年目となる今年のテーマは「教育×カミングアウト」。マイノリティ属性の悩みを抱えた学生にとって、教師からの何気ない一言で傷つくということは、思いのほか多いものだそうです。キャッチコピーは「先生が気づけば 学校が変わる」。
 


 

バブリングの代表の網谷勇気さんは、プラスハンディキャップのコラムにも登場していますが、自身がゲイであることをオープンにしています。
 

イベント会場は「クラスはマイノリティでできている」・「先生あのね」の展示、マイノリティ属性について学べる本を紹介する「マイノリティ科1組学級文庫」、来場者が自身の明日からの行動を宣言する「バブバブの樹」など盛りだくさんのコーナーが展開されており、ひとつひとつのコーナーに足を運ぶ度に、考えさせられることがいっぱいでした。
 

時に印象的だったのは「先生あのね」のコーナー。先生に実際に言われて悲しかった言葉と嬉しかった言葉が展示されていました。LGBTや性に関する言葉が多く「中高生の頃は、恋愛に関する噂話がすぐに広まっていたこと」を思い出しました。
 

学校での悲しかった出来事は、強く心に残ります。多くの学校では集団生活が続きますが、画一的な枠に押し込められやすく、そこからはみ出す存在は排除されやすい環境にあります。「クラスの人間関係が全て」というような学校独特の雰囲気に対し、一般的ではないマイノリティ属性の方々はしんどい思いをすることが想像に難くありません。
 

バブバブの樹!

 

イベントのメインコンテンツのひとつ「授業中にゲイだとカミングアウトした生徒×先生」のトークセッションはなかなか興味深く、聞き応えのあるものでした。
 

カミングアウトした生徒のアオイさんは現在大学2年生。高校1年生の時にご自身が同性愛者であることを確信したそうです。ただ、そのことで悩んだことはあまり無く「運命と受け入れた」と表現されています。
 

カミングアウトされた側の松本さんは高校の社会科の先生。ご自身は異性愛者ですが、もともと網谷さんの友人だったこともあり、バブリングのスタッフとして活動しています。松本さんは1年間の授業のどこかで必ずLGBTの話をされるそうで、授業で同性愛の話に触れたときに「先生、自分はゲイなんです」とアオイさんからカミングアウトを受けました。
 

アオイさんは、カミングアウトについて「受け入れてくれそうな人とそうでない人はわかる」と話し、受け入れてくれない人がいても「偏見がある人なんだなと距離を置くだけ」と考えるそうです。周囲から否定的な反応があったらどうしようというような、カミングアウト関連でよく聞く不安を感じることはないというお話もあり、運命として受け入れたという言葉への納得度が高まりました。
 

また、松本さんの話では、誤解を生まずに生徒たちに伝えていくために「どういう取り上げ方、順番で伝えるかを考えた」と話していました。先生同士でも「どこまで話すかは相手による」という観点だそうで、論理的な発信、戦略的な発信のほうが、受け手にとって誠実だなと感じます。
 

二人に共通することは「想像上の悩み」が少なく、かつ「目の前の相手をよく見ている」ということ。カミングアウトをするかどうかで悩んでいるときは、自分のことで手一杯になっていて相手があまりよく見えていない印象がありますが、二人はその先にいて、こちらを客観的に見ているように思います。
 

二人は、自分の発言に責任をとっているといえるのかもしれません。拒絶をされたら、遠ざかるだけ。相手のせいにして責めることもなく、行動も制限しない。私自身、カミングアウトに対して少し嫌なイメージを持っていたのですが、それはカミングアウトそのものではなく、その裏側にありがちな「相手を動かしたい」という欲求が嫌だったのかもしれないと気づかされました。
 

「受け入れてほしいと言うと押し付けがましくなってしまう。こういう人たちがいることを知っておいて。」

 

トークセッションでの松本さんのこの一言が強く心に響きます。
 

声を大にして言えたら、どれだけ楽なことか…

 

ただ、カミングアウトって大事だよねというイベントやその風潮に対して、個人的にモヤモヤしていることも事実です。カミングアウトを通じて、マイノリティ属性同士でつながりたいだけなのか、カミングアウト経験者同士でつながりたいだけなのか。なんとなく私の目には「カミングアウト=仲間として認められる通過儀礼」に見えてしまうのです。
 

カミングアウトはつながりを求めるものではなく、対人関係の中で生まれた困難の打開だと個人的には思っています。「カミングアウトを通じて仲間としてつながる必要性があるのかどうか」は疑問です。
 

マイノリティ属性として生きてきて、偏見や無関心に包まれた中で孤独感や孤立感を経験した人が、カミングアウトを通じて仲間に溶け込もうとする傾向があることは納得できます。
 

ただ、自分も相手も、カミングアウトに対する考え方も違えば、自分のことを受容できるタイミングも違います。言ってしまったものは、元には戻らないし、新たな傷を負ってしまうことだってあり得ます。私の心の中では、まだ、カミングアウトはハイリスク・ハイリターンなのです。
 

私は今後もプラスハンディキャップの活動以外では、ほとんどカミングアウトをせずに生きていきます。自分の保身のために隠しているので、本当に申し訳ない限りです。カミングアウトが「他者にはなかなか言いづらいことの告白」なのであれば、都合の悪さ、バツの悪さをさらけ出してもいいのではないでしょうか。私の「ありのままの本音」は以上です。
 

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この記事を書いた人

森本 しおり

1988年生まれ。「何事も一生懸命」なADHD当事者ライター。
幼い頃から周りになかなか溶け込めず、違和感を持ち続ける。何とか大学までは卒業できたものの、就職後1年でパニック障害を発症し、退職。障害福祉の仕事をしていた27歳のときに「大人の発達障害」当事者であることが判明。以降、少しずつ自分とうまく付き合うコツをつかんでいる。
自身の経験から「道に迷う人に、選択肢を提示するような記事を書きたい」とライター業務を始める。