他人は他人、自分は自分。そう切り替えられるなら、こんな苦労はしていない。

以前、こういった動画を観たことがあります。
 

[youtube id=”__DBxuQYQw0″]
 

これは、就職活動を行う男子大学生を主人公とした話です。あらゆる場面にて、彼は様々な失敗を繰り返します。その内容は多岐に渡っていて、例えば。
 

①期日までに書類やレポートを提出することができない
②忘れ物が絶えない
③一つの事に没頭するあまり、時間の経過に気づかない
④決められた時間の約束を守ることができない
⑤焦りのためか、履歴書へと記入する文字が汚い
 

こういった毎日やトラブルが続き、彼はやっとの思いで約束ができた採用面接にも遅刻し、完全に自信を失くしてしまいます。そして一言、こうつぶやきました。
 

「どうして自分は何もうまくいかないのだろう」
 

失くし続けるものは

 

私自身もこの大学生と同じ傾向と失敗を体験しています。就職活動を行っても一切に選考が進まずに就職もできなかったのが自分の場合。そのため、完全に自信を喪失しました。ようやく現在になって、気持ちを立て直し、就労支援を受けているのです。
 

この動画に出てくる大学生や私の性質は、発達障害を持つひとに見られる特徴だということを分かるひとはいると思います。つまり、自分たちは「障害者」と呼ばれるべき人間らしいのです。
 

個人的にこの名称は、一種の差別的な表現にも聞こえて、大変に不満で、そして不愉快に思います。けれども、周囲が普通にできることを普通にできない自分を見つめると、それは障害者と呼ばれざるを得ないのかもしれません。
 

私はそうして、今も自信を失い続けています。
 


 

できないことはできないと割り切ってはいけませんか

 

いろいろなことに疲れて精神科病棟へ入院した私なのですが、調子の悪さに更なる拍車をかける事態が起こりました。就労支援事業所の後輩が、早々に一般就職を決めて、事業所を卒業することを聞いたのです。
 

私には揺さぶりが来ました。ただでさえ、就職活動が一切に「何もうまくいかない」現実に困っている人間が、このような話を耳にしてしまったら、「どうして」に気持ちを大きく圧されてしまいます。障害と自分について考え込み、私は病棟で不安定な状態へと陥りました。
 

周りは言います。
 

「山本さんの気持ちは分かるけれども、”他人は他人、自分は自分”と割り切らなければいけない」
 

それはもっともな意見ですが、胸の中にあるこの不満だったり、疑問だったり、遣る瀬の無さだったりは、どう処理しろというのでしょうか。”自分は自分”と思うと、私は一生に渡って、蟻地獄でもがき続ける自身を傍観しなければならない。そういった感覚にさえ苛まれます。
 

「そうですか、ありがとうございません」

 

冒頭に紹介した動画の終わりでは、私と同じく、疲れきって精神科を訪れた大学生が、医師からこう言われていました。
 

「あなたが悪いのではありません。これは発達障害の症状です」
 

この動画を観終わった、私の感想をお話しします。
 

「そうですか、ありがとうございます。しかし、本人が悪くなかったとしても、責任を取るべきは誰なのでしょう。最終的には本人しか残らないと思うのですが、私の考えはいかがですか」
 

障害者は好きで、そういった存在として生まれてはいません。けれども、社会は冷遇するか、中途半端に手を差し伸べるか、そのいずれかを私たちに行なっては去っていきます。
 

冷遇するならば、分かりやすく冷遇してほしい。助けるならば、責任をもって最後まで助けてほしい。私はそう思います。
 

「どうしたらいいのか、どうしよう」
 

それが、自分にとって一番に困惑させられることです。この中途半端な行き戻りで、私は嫌だというほどに傷付いています。それは動画の主人公の大学生も、心のどこかで感じていることではないでしょうか。
 

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この記事を書いた人

山本 佑貴