「子どもの声」と「大人の期待」の狭間。カナエールスピーチコンテスト横浜大会に赴いて。

18歳になった途端に「あなたは社会へ出て、一人で生きていく覚悟が出来ていますか?」と聞かれて、「はい」と答えられるひとはどのくらいいるでしょうか。
 

児童養護施設出身だとその覚悟を求められてしまうことがほとんど。それまでの住まいを出て一人暮らし。家事をするのもお金を稼ぐのもすべて自分。そして、その子どもたちの多くには、頼れる家族や実家がありません。「まだ覚悟ができていない」と言っても、タイムリミットは刻一刻と迫り、待ってはくれません。
 

カナエール横浜会場

 

カナエールスピーチコンテストは、そんな彼らの進学を応援する奨学金プログラム。そこでは「過去を乗り越え、夢を語る」機会が広がっています。私は7月1日に行われたカナエール横浜大会のスピーチを聞いてきました。今回コンテストに挑戦したルンジャー(スピーチを行う児童養護施設出身者)は7人。1人が棄権し、実際にスピーチを行ったのは6人でした。
 

6人は彼らを支えるエンパワ(ボランティア)や施設の職員をはじめとする、周囲の大人の期待に見事に応えていました。彼らは過去を振り返り、スピーチの中でそれを「乗り越えた」経験を語っています。でも、聞いている私には徐々に疑問がわいてきました。それって施設を出たばかりで、あるいは施設を出ることが決まっている段階で「乗り越えられる」ようなことなのでしょうか?
 

これまでの振り返りを3人の大人のサポート(ルンジャーひとりにエンパワが3人)を受けながら出来るので、乗り越えようとするには絶好のチャンスです。実際にスピーチが自分と向き合うきっかけになり、大きく成長をしたと感じさせてくれるルンジャーもいました。それまでの生活を送る中で周囲に支えられた経験があり、前へと進んでいることが伝わってくるルンジャーもいました。
 

今回は、彼らのスピーチの一部を紹介しながら「子どもの声」からチラリと垣間見える「大人の期待」について改めて考えてみます。
 

不自由と不幸はイコールではない

 

まずは、一人のルンジャーのスピーチから。彼は「施設の後輩を励ませるような調理師」という夢を語ってくれました。12年間施設にいたこと、調理師を目指すきっかけになったオープンキャンパス、そして、現在の学生生活や家事の困難さといった3部構成のスピーチになっていました。その中で、施設での生活と支えてくれた人についてこう話しています。
 

「施設にいることが幸せではないと感じる子供たちに 『不自由と不幸はイコールではない』と気づいて前向きになって欲しいです。施設の生活は不自由でした。門限は17時、ゲームは1日1時間、携帯を持つことが出来ない。でも施設では笑って生活をしていました。世間的に『かわいそう』と思われているかもしれないけれど、必ずそうとは限りません。
 

施設にいた期間の中で高校1,2年生の時、僕は世界一孤独だと感じました。次第に学校に行かなくなりました。どうせなんとかなると甘えていました。そうして、結果、留年しました。自暴自棄になっていました。
 

そんな時、施設の担当が変わったんです。新しい先生は、やる気をなくした自分と一緒に遊んで、バカなことをして、バカな話をしてくれました。楽しいことだけでなく、僕が学校を休んだ時には真剣に怒ってくれました。『お前は絶対に卒業をするんだよ!お前が卒業をしないなら俺もここを去る』
 

僕は生まれて初めて、こんなに自分を思ってくれる人がいるんだと、胸が熱くなりました。そんな風に、僕が卒業するまで二年間、ずっと面倒を見てくれました。だから僕は決して『かわいそう』ではなかった。先生と会えて幸せでした。
 

自分にとって一番尊敬できる大人に、自分の料理を出して、立派な大人になったということ、自分はもう大丈夫なんだと安心させてあげたいです。」
 

(カナエール公式イベントの実況とメモをもとに書いた原稿ですので、一部実際と異なる表現があるかと思われます)
 

「不自由と不幸はイコールではない」はとても印象に残る表現でした。施設で暮らしたことのないひとにも、その生活が伝わります。そして、ふと気づかされます。もしかして「施設の暮らし」をしているひとに「かわいそう」というレッテルを貼っていなかっただろうかと。
 

それは「頼れるひと=家族」「家族は暖かいもの」という思い込みがあるから、無意識に貼ってしまったレッテルなのかもしれません。それがないひとは「かわいそう」だと。彼はスピーチを通じて、不幸なのは親元で育っていないことではなく、頼れる相手がいないことだと気づかせてくれました。
 

カナエールは今年が最後でした。

 

周囲の期待に、自分の想いを合わせてしまうのかもしれない

 

ただ、スピーチを聞いていると「まだ本来なら過去のことを乗り越える準備が出来ていないのかもしれない」と感じるルンジャーもいました。それは、18歳というタイミングで施設を出て行った過去の出身者の中にも多くいることでしょう。
 

「まだ、前に進めません。今の自分にはそれができないのです。それでも、進むしかない状況です。」という本音が出てくるルンジャーがいてもおかしくないんじゃないかな…ひとりくらいスピーチで語ってくれてもな…と思ったことも事実です。例えば、リタイアしたルンジャーが「リタイアしたいくらいの心情と現実」を伝えてくれたならば、それがリアルな声で、それが大人への問題提起になったりして。そんな感情も抱きました。実際にはどんな事情や経緯があったのかわかりませんが。
 


 

勝手な期待をしてしまう大人

 

司会の久波孝典さんは自身のスピーチの中で「彼らの話は、涙を流すだけで消費されてはいけない。今後も支援を続けて欲しい」と言っていました。きれいな話にまとめてしまうと「涙を流すだけで消費」される可能性が高くなります。美談だけで問題意識を大きく変えることは、難しいのではないでしょうか。
 

あるルンジャーはスピーチの中で性的虐待の経験について語っていました。その事実を別の人に打ち明けたとき「自分の気持ちは聞いてもらえなかった」とも言っていました。最初の加害者は親で、その次の加害者は「その話を聞かなかった大人」です。
 

もしかしたら「家族がそんなことするわけない」とその話を信じられなかったのかもしれません。しかし、その考えって私たちの中にもあるような気がします。私たちも「話を聞かなかった大人」になる危険性があるのではないでしょうか?
 

児童養護施設を出て、一人で生きていく。カナエールはスピーチを作る過程でその覚悟を問い、自分を振り返りながら、自分を見つめ直します。その後の人生は、スピーチで語られるような綺麗事ばかりで済むわけではないでしょう。「ルンジャーたちの物語」で聞き終わるのではなく、私たちの身近な課題として捉えられるように、聞く側にも覚悟が必要だったなと感じました。
 

7年間というカナエールの期間があったから、卒業生の行く末を見知っていたはず。行く末の現実感をもう少し聞きたかったなという感想はありますが、私の意見も「勝手な大人の期待」なのでしょう。施設にいる後輩からすれば、希望を胸に、前へと進むためのスピーチを聞きたいという想いのほうが現実味に溢れていますから。
 

参考 カナエール2017 夢スピーチコンテスト 横浜 公式ツイートまとめ
https://togetter.com/li/1125780?page=2
 

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この記事を書いた人

森本 しおり

1988年生まれ。「何事も一生懸命」なADHD当事者ライター。
幼い頃から周りになかなか溶け込めず、違和感を持ち続ける。何とか大学までは卒業できたものの、就職後1年でパニック障害を発症し、退職。障害福祉の仕事をしていた27歳のときに「大人の発達障害」当事者であることが判明。以降、少しずつ自分とうまく付き合うコツをつかんでいる。
自身の経験から「道に迷う人に、選択肢を提示するような記事を書きたい」とライター業務を始める。