交通事故で頸髄損傷になった私が最初に感じた死の恐怖、呼吸困難。

健常者としてどこにでもいるような普通の女の子として過ごしてきた私、伊藤ユカ。そんな私がある日、交通事故に遭ってから人生は一変。『頸髄損傷』によって車いす生活になりました。
 


 

今回は私の負った『頸髄損傷』について、私の急性期病院の体験も振り返りながらお話していこうと思います。
 

頸髄損傷について|wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%B8%E9%AB%84%E6%90%8D%E5%82%B7
 

Wikipediaによると、これが一般的な頸髄損傷の症状です。神経を損傷してしまうと、運動機能・知覚機能・体幹機能・自律神経機能・排泄機能などに障害が出てしまいます。
 

でも、こういうものに書かれている情報は本当に一般的なものであって、神経をどのように損傷したかで後遺症は大きく変わってきます。スムーズにリハビリに進める人もいれば、私のようにたくさんの回り道をする場合もあります。
 

私の場合は、病院に運ばれてすぐにはオペをしていません。まずは色々な処置が施され、病室のベッドで落ち着いた頃にはハッキリと意識がありましたし、会話もしていました。
 

不幸中の幸いで、事故に遭った瞬間から一瞬たりとも痛みを感じておらず、首の角度も固定されて動かせなかったことで自分の状態が視覚で把握できていなかったせいか、ベッド上は快適なものでした。実はどこも悪いところなんてないのではないかとさえ思い、体の中は大変なことになっているというのに、主治医に「オペしなきゃダメですか?」と聞いて呆れさせていたほどでした。
 

入院した当初は、勤め先のシフトばかり気にしていました。「代わり見つかったかな…申し訳ないことしてしまった」とか、そんなことばかり言っていた気がします。もうその仕事には一生戻れないだなんて当時の私は知りもせず、「いつ退院できるかな~?」なんて言っちゃって、呑気なものでした。そんな私を間近で見ていた母は、私のことをどう思っていたのでしょう…(笑)。
 

事故に遭って、至るところを骨折しているとは聞かされていたけれど、痛みもなく快適。ただ、体中がカーッと熱いような感覚で、動かそうとしても脚も腕も指先も、体のどこの部分も動きませんでした。
 

「なんで体動かないの?」
「なんかすごい暑いんだけど」
 

疑問に思ったことを何でも母に聞いていた気がします。
 

「今は体がビックリしちゃってるんだって」
 

そのようなことを言われて、詳しくは教えてくれなかった記憶があります。
 

後々知りますが、これがいわゆる『脊髄ショック期』。脊髄がダメージを受けたことによって、脊髄に関係する基本的な働きが一時的に失われます。
 

個人差はありますが、24時間から対麻痺(下肢麻痺)では3週間、四肢麻痺では6週間の間は、神経学的に回復が見られることがあると言われていて、障害者手帳を作るにも、この期間でどれくらい回復するか様子を見て、医師が症状固定をするまでは作ることができなかったと記憶しています。
 


 

事故から約1週間後に骨折部分の固定をする長時間のオペを受けました。オペ後からは、見舞いに来る家族や親戚に「今は動かないけど、力を入れて動かすイメージをしていれば絶対に動くようになるよ」と、言われていた気がします。
 

全身が動かないから、ナースコールは息を吹きかけたら鳴る装置のものにされていて、喋っていたら間違って鳴らしてしまったり、鳴ってほしいときには鳴らなかったりで、早く腕が動くようにならないかな…と思いながら過ごしていました。
 

オペを受けた後、主治医からは「首をオペしているから、痰が出やすくなっていると思う。こまめに出すようにしてね」と言われていました。指示通りやっていたのですが、元から筋肉があまり無い痩せ型だった私は、寝たきり状態のうちに筋力が落ち、当時は気づいていませんでしたが、咳込む力も弱まっていました。
 

そして、よく痰が絡んで窒息する事態に。
 

先日の記事で書いた『生死を彷徨う場面が何度かあった』というのは、事故後すぐのことではなく、この時期のこと。痰が絡みだしたら1時間くらいは咳込みながら、吸引のカテーテルを入れられたり、スクイージング(胸郭の部位に手掌を当てて、絞り込むように圧迫して痰を喀出する手技)をしてもらったりして、運よく一度は落ち着いても、30分もしないうちにまた痰が絡んでこの繰り返し。
 

痰が詰まったときに周りに人がいなければ、呼吸ができないので吹くタイプのナースコールが使い物になりません。24時間安心して休める時間がなく、母がついていてくれる間はまだ安心できましたが、面会時間も終わり、夜勤で看護師の人数が減ったときには、ナースコールが鳴ってくれたとしても、すぐに来てもらえる確証はありません。
 

咳がうまくできない現実も何故だか分からず馬鹿らしいと思う反面、痰が詰まったときの恐怖は水に溺れたような感覚で、とてつもなく不安で、「明日には私はこの世にいないかもしれない」「今夜、死ぬかもしれない」「もしかしたら数時間後には…」など、1日の大半はこんなことを考えながら、痰と格闘していました。
 

母にお願いして、何度か病院に泊まってもらったこともありました。母も疲れ果てていて、家でゆっくり休んでほしいとは思いつつも、このときは形振り構っていられずに「お願いだから今日も泊っていって」と懇願している私がいました。私の人生で、最も辛い時期だったと思います。
 

痰が取れずに完全に詰まったときは、酸素が足りなくなって、体が痺れてきて、すると今までものすごく苦しかったはずなのに、急に楽になって、心地よくなって、そして看護師と母の声がだんだん遠のいていって…。
 

呼吸停止。
 

次に意識が戻ったときには、ものすごい人数の医師と看護師が私のベッドの周りにいて、気管支鏡を使って痰を吸引して助けてもらっていた…ということが、1週間のうちに3回くらいありました。
 

このとき、人生で初めて『死』を間近に感じました。
 

当たり前だけど、人間って呼吸ができないと簡単に死ぬんだな…なんて、麻酔から覚めたばかりの私は、バックバルブマスクを使って呼吸の管理をされながら、ぼんやりと思っていた記憶があります。
 

このあと検査をし、結果的には2つある肺の1つがほぼ機能しておらず、私はオペ後に合併症で肺炎を起こしていることが判明します。事故で救急病棟に運ばれ、一般病棟に移ってから肺炎でICU行きに…。私も家族も、途中からICUに入ることになるなんて思ってもいませんでした。
 

そしてここから多分、人生で最も歯痒い生活が始まるのです。
 

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伊藤 ユカ