障害者手帳がなければ障害者ではないのか?障害者手帳の更新棄却、そして再発行を経て。

「障害者手帳がなければ障害者ではないのか?」
 

これはなかなか悩ましい問いですが、決してそう断定できるものではありません。理由は単純で、医療機関で身体・知的・精神・発達等の障害により日常生活に支障があると診断されても、個人の意思で申請をしない人もいれば、制度上の理由により申請することができない人もいるからです。申請が可能な場合、申請するかどうかは個人やその家族の裁量に委ねられます。しかし、ここで重要なのは申請したくてもできない人、また申請しても認められない人がいるということなのです。
 

障害者手帳を有する最大のメリットは、自分が障害者であることを簡潔に証明できることかもしれません。日々のあらゆる手続きに加え、人間関係などにおいてトラブルが生じた場合に、もしそれが障害に起因するものであれば、自分が障害者であることを証明し、釈明する必要があります。障害者手帳はその根拠を確かなものとします。
 

外から見て分かりやすいか、分かりづらいかという問題もあります。

外から見て分かりやすいか、分かりづらいかという問題もあります。


 

私は視覚に障害がありながら日常の情報獲得は視力に頼りきりなので、他者からすればちっとも視覚障害者に見えないかもしれません。しかし、視機能が一般の人よりも劣っていることは医学的にも証明済みなので、どんなにがんばって目を凝らしても、見えないものは見えないのです。
 

私の視覚障害が原因で他者との間に勘違いやなんらかのトラブルが生じた場合、相手が私を障害者と認識していなかったとしても、手帳が私の言い分を裏づけてくれますが、手帳がなければ時間をかけて説明する必要があり、心身ともに疲弊してしまいます。もちろん、日々の生活では多くの人と接して生きていくわけですから、障害者自身にも可能であれば自分の障害を説明する必要性はあります。ただそれが日常茶飯事になってしまうと、少なくとも私にとってはしんどいのです。
 

障害は専門知識を詰め込んだからといって容易に理解できるものではなく、下手に説明するとわかった気になられて、後々問題が生じてしまうということもあります。説明する時にはどうしても慎重な姿勢をとりがちです。
 

また、自分には障害があるということを話すと、多くの人は神妙な顔になります。そして、その度になんだか寂しい気持ちになるのです。乙武洋匡さんがご自身の著書『五体不満足』で「障害は不便です。しかし、不幸ではありません。」とおっしゃっているのを知っている人は多いと思いますが、私もこれに共感します。障害を有して生まれてきたことで他の人が体感し得ない特別な世界に浸ることができているからです。障害者として生きるというのもまた一興ということかもしれません。
 

私自身は、自分に障害があるということを周囲が認知してくれればそれで十分で、詳しい理解も過剰な気遣いも不要だと思っています。そうした最低限の条件をクリアする上で障害者手帳は私にとって最適なツールといえるのです。
 

今年の4月に障害者手帳を失って4ヶ月弱。お盆を前に、両親に勧められるまま何の気なしに受診した視力検査の結果、私の目は再び手帳の申請圏内に落ち着きました。12月現在、5級の身体障害者手帳を所持しています。
 

手帳の申請が棄却されたばかりの頃に一度記事を書いたのですが、再取得したこともあり、伝えたいことがあって、またこうして言葉を綴っています。障害者手帳の存在すら知らなかった少年期を経たのち、障害者手帳を取得して4年。制度により棄却され、再認定を受けるという人生を送ってきました。ややこしい話ですが、そうした一連の経験の中で感じてきたことを形にしていきたいと思います。
 

「障害者手帳がなければ障害者ではないのか?軽度な障害から起こる生きづらさ。」
//plus-handicap.com/2015/05/5648/
 

写真の障害者手帳は編集長の佐々木さんの使い古したものです。

写真の障害者手帳は編集長の佐々木さんの使い古したものです。


 

転機の再来

 

今年の8月に実家に帰省した折、母親に連れられ、3歳のころからお世話になっている視覚訓練士のKさん(以下Kさん)のもとに挨拶に行きました。今年で19年の付き合いになり、私が医療従事者の中で最も信頼を置く人です。
 

私のかかりつけの病院は県立の病院で、手帳更新のために受診した4月の検査の時は、Kさんは人事異動で別の病院に移っていたため、初対面の視覚訓練士さんが私の検査を担当してくださいました。診察してくださった眼科医の先生も初めてお会いする方だったので、検査環境はいつもとは異なっていました。もしかすると、検査の手順や判断方法等も担当する人によって多少の差異があるのかもしれません。ただ、それが原因で普段と異なる診断結果が出たのかどうか、言及するつもりはありません。視力検査は基本的に自己申告制なので、私に原因があった可能性もあります。
 

4月の検査の話を耳にしたKさんが心配してくださって、自分のもとで検査を受けるよう両親に持ちかけてくださっていたのでした。私は挨拶のつもりで伺ったので、不意を突かれながらも検査室へ向かいました。
 

椅子に腰掛け、ランドルト環(視力検査で使う輪っかの一部が欠けたアレ)の表示板を前にして、点灯したターゲットに目をやります。最上段の1番大きなサイズはいつも通りクリア。さて、問題は次。1つサイズを小さくした次段のターゲットが私を悩ませるのです。私にとって、このサイズは見えたり見えなかったりするのです。さっきまでは見えていたのに、次に見た時にはぼやけてよくわからなくなるということがままあります。そのため、自分でも見えているのかいないのかはっきりしないのです。「わかりません」という回答が妥当なのでしょうが、時たま見えていると思うことがあるのでその際は正直に答えます。
 

長年の付き合いで私の特性を理解してくださっているKさんは、この部分を何度も繰り返し試行し、慎重に検査を進めていきました。その結果、手帳の申請圏内という判断がなされたのでした。
 

医療従事者と特殊な疾患の患者との間には、長年のやりとりに基づく相互の理解という要素が重要な意味をもたらすのではないかと確信した瞬間でもありました。
 

20151220②
 

形を変えて今なお心に絡みつく葛藤。

 

「あっけない」
 

これが再認定、障害者手帳の申請が可能と決まった時の率直な感想です。
 

検査結果を受けて、両親は手帳再申請の準備に移ろうとしました。その時、私の中には新たな違和感が生じつつあり、一度申請に待ったをかけました。その日から数日間、両親と腹を割って話し込みました。
 

違和感の原因はおそらく、障害者認定を受けたくても受けられない人がいる中で、自分は再認定を受けてもよいのかという葛藤です。手帳が棄却された経験がなければ、こうした思考には至らなかったかもしれません。
 

障害者手帳には障害の証明のみならず、経済的補助(等級により異なる)や障害者雇用枠の利用等様々な効果が付随します。特に交通費の減額は、自動車免許を取得できない私にとって隠しようもないメリットになります。これは今に限らず、将来性を考えればなお有効であるため、この点に関しては特に両親に説得されました。
 

頭の中ではどれだけ考えても振り出しに戻るような事柄が右往左往するばかり。医療や福祉に振り回されていると思っている自分は単に無知なだけなのか。扶養を受ける身であり、決して裕福な家計でない中で経済的補助が得られれば家族の負担軽減につながるのではないか。しかし、自分以上に補助を受けて然るべき人がいるのではないか、一方で、一概に障害者といってもその中で経済格差や就労などの問題があるし、手帳だけで相対的平等を考えることができないのは当然のことなのではないか。そもそも、生活上の幸福感は個人によって異なるから、必要以上の比較は不要なのではないか…。
 

思考が混乱し、ついにはこういったことを考えること自体が傲慢なのではないかと思い始めました。結局、申請を拒む決定的な理由は見つからず、再申請手続きを済ませました。
 

20151220③
 

それからわずか1ヶ月足らずで、新しい手帳が発行されました。一度棄却された身なので、今回はより厳格な審査のもと、もしかすると再度棄却になるのではと思っていましたが、杞憂に終わりました。行政も数年単位で職員の人事異動があるため、専門性の低い判断基準を設定しているのかもしれません。
 

今も私の心の片隅では、得体の知れないモヤモヤが渦巻いています。一時期、考えすぎで抑うつになっていたこともありました。重度の障害がある人に比べれば日常の負担は少ないかもしれません。それでも、中途半端な障害を持って生きる、障害者手帳を取得し、棄却され、再取得したという背景をもっているのはそれはそれで大変なのです。
 

人々が互いに良好な関係を築いていくためには、それぞれの関係性において多くの課題があるものだと思いますが、ある種イレギュラーな存在の私は、関係を築く上での課題にどうしても敏感になってしまうのです。
 

新しい自分のあり方

 

モヤモヤを抱える一方で、「手帳だけで自分の存在を縛るのはもったいない」といった声をいただいたり、多くの人の助けを借りて「ある時は認定障害者、またある時は非認定障害者と変動する自分を受容し、他者に対してもそう告げる」という新しいあり方に行き着いたりもしました。
 

制度がキーになって自分の立場が変動しうるというのは客観的に見るとなかなか面白いことだと思います。環境に応じて体の色を変化させるカメレオンに似ているなと(笑)。だからといって日々の苦労を拭い去ることはできませんが。
 

制度は時として排除を生み出します。しかし、制度そのものは大多数の人々の均衡を保っているのもまた事実。ですから、私は制度に抗うつもりはありませんし、その都度流れに身を任せて無理のないように生きようと思います。
 

それでも自分の状況や立場が揺らいだと感じた時には、こうして想いを形にすることで社会のシステムが補いきれない部分を浮き彫りにしていきたいと思っています。このアクションが誰かにとっての新しい気づきとなることを信じて。
 

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  1. 障害者手帳がなければ障害者ではないのか?障害者手帳の更新棄却、そして再発行を経て。
  2. 障害者手帳がなければ障害者ではないのか?軽度な障害から起こる生きづらさ。