「インクルーシブ教育」という言葉の認知度と言葉が抱えるリスク

皆さんは「インクルーシブ教育」という言葉をご存知でしょうか。実は私はつい最近まで知りませんでした。20年前の私は、今この「インクルーシブ教育」で考えるべき対象となり得ていたようです。
 

障害のある子どもと障害のない子どもが同じ場で共に学ぶ。
 

文部科学省が映画『レインツリーの国』とタイアップして作った「インクルーシブ教育システム」の啓発サイトには、インクルーシブ教育という専門家でなければあまり聞き馴染みのない言葉をこのように説明しています。ちなみに『レインツリーの国』はおおらかで正直な主人公と聴覚に障害をもつヒロインとのラブストーリーです。
 

文部科学省 × 映画「レインツリーの国」のコラボレーションサイト(スクリーンショット) 「インクルーシブ教育システム」の啓発が目的。
文部科学省 × 映画「レインツリーの国」のコラボレーションサイト(スクリーンショット)
「インクルーシブ教育システム」の啓発が目的。

 

クラスの中で急に走り始める子ども、読む・書く・計算するというようなスキルの一部が極端に苦手な子ども、知的に遅れが目立つ子ども。障害児という括りの中で見られるその特徴は様々で、いわゆる普通の子ども(≒健常児)と一緒の空間・時間で学び合うことに困難さが生じるとされてきました。
 

通っていた小学校に「ひまわり学級」のような名称の障害児が集められた特別支援学級(かつての養護学級)があった方もいると思いますが、特別支援学校や特別支援学級のように、障害児を受け入れるための学校や学級もあり、子どもたちの障害の種類や程度、教育ニーズなどに合わせて多様な学びの場が設置されています。もちろん、普通学級で学ぶ障害児もいます。両足が不自由な私自身も普通学級で過ごしました。
 

「障害児限定」という空間はメリットもあればデメリットもあります。閉鎖的にならざるを得ない、限られたメンバーとのつながりしかない環境下で教育を受けることによって、一般社会とのコミュニケーションや接続の経験が希薄なまま、社会へ出ることなどはデメリットの一例と言えるかもしれません。
 

「障害のある者が、その能力等を最大限に発達させ、自由な社会に効果的に参加することを可能とする目的の下で、障害のある者と障害のない者が共に学ぶ仕組み」という文言が、平成18年の国連総会で採択された「障害者の権利に関する条約」のなかで明記されたものですが、この理念をベースにインクルーシブ教育を進めていく動きが盛んになりつつあります。
 

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インクルーシブとは「包摂的な」という意味です。「包摂的」と言われてもピンと来ませんが、反対語が「排除的な、排他的な」という意味であると言われれば、なんとなく分かるような気がします。
 

障害児は一般的な教育現場からは制度的、効率的、情緒的など様々な観点から排除されてきた過去があります。障害の有無に関わらず、同じ教室のなかで、共に学べる環境を整えたいという想いは非常に納得感のあるものです。また、障害者差別解消法が施行されることで、教育現場での合理的配慮(一人ひとりの障害の種類や程度、ニーズに合わせて可能な範囲で配慮を行うこと)が求められることも契機でしょう。
 

身体、知的、精神、発達という障害の種類だけでも多様で、かつ画一的な解がないなか、教育現場を整備することは難易度の高い作業。専門家の方々や強い想いを持つ方々のアクションには頭が上がりませんが、この分野にはズブの素人ながら、なんとなく違和感を覚えるのです。
 

これって障害児だけが対象なのかと。
 

文部科学省の定義を読めば、インクルーシブ教育はたしかに障害児が対象のものでしょう。しかし、難病と戦う子どもは?性的指向がマイノリティの子どもは?イジメなどが原因で不登校になった子どもは?日本以外にルーツをもつ子どもは?といった様々な「学びづらさ」を抱える子どもたちは、インクルーシブ教育の対象となり得ないのでしょうか。
 

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「障害児への配慮」を考えることで、性的マイノリティや難病患者に対する配慮がおざなりになってしまうのであれば、インクルーシブ教育と謳いながら(包摂を意図しながら)別の排除を生み出す結果となります。障害児のことを解決した後、性的マイノリティのことを考え、難病患者のことはその次だというように計画されているのかもしれませんが、専門性が縦割りになっている現状では予期しにくいことです。
 

社会的弱者の、とあるひとつの属性に焦点を当てて議論を行うと、どうしても他の属性の存在を忘れがちになってしまいます。例えば、障害者について議論すれば、性的マイノリティの議論が抜けてしまうというように。発達障害児のためにipadを支給して授業を行うという施策を日本語の分からない外国にルーツのある転校生に応用してみるといった具合に、他の属性に転用するという発想があれば、抜け漏れは防げるかもしれません。
 

幸いにも普通学級で学ぶことができた障害児だったからこそ、インクルーシブ教育はこれからの時代に必要な教育の在り方だと感じています。ここまでの文面を読めば否定的に考えている筆者と思われているかもしれませんが、インクルーシブ教育が結果的に別の排除を生み出してしまったならばそれは悲劇的であり、その点に関して警鐘を鳴らしたいだけです。このコラムを書くにあたって、インクルーシブ教育について研究している方のブログ記事や論評などをいくつか読みましたが、「すべての子どものため」と記述されていることがほとんどです。障害児を対象として限定的に言葉を使っているのではないかという私の懸念はおそらく杞憂なのだと思います。
 

ただ、教育を受ける側・親御さん側は教育の専門家ではありません。また、教員自体がインクルーシブ教育の専門家というわけでもないでしょう。社会問題の解決を取り組む場面において、その専門家だけが盛り上がるという傾向も時にありますが、それこそ包摂されている状態とは言えません。言葉と言葉が表す状態は、なかなか難しいものだなと思います。
 

自分の息子が学校に通い出したとき、教育現場はどうなっているのだろうか。
自分の息子が学校に通い出したとき、教育現場はどうなっているのだろうか。

 

誰もが違う背景を持った子どもであるという現実を認識し、担任や教科担当の創意工夫と仮説検証が諸方面から許される教育現場になれば、解決できる問題も多いのだろうと推測されますが、それが許されない面があるからこそ、現場の気苦労が絶えないのだなと感じます。1児のパパとなりましたが、学校の先生の待遇改善は、子どもを預ける身として強く願いたいところです。
 

それに関連して、インクルーシブ教育という観点では「障害児への配慮を行う側への配慮」に関する提案も個人的には必要だと考えます。クラスに1人障害児がいた場合、例えばそのクラスの担任にはどのような配慮がもたらされるのでしょうか。賃金、人員のサポート、ストレスケア。配慮という一手間がかかるのであれば、その一手間分を補填する配慮はどこまで想定しているのでしょうか。
 

いくら仕事とはいえ、日に日に負荷が加わるのは教員本人を潰しかねませんし、障害児を教えることがやりがいにつながるというようなメッセージは一種のハラスメントと捉えられてしまう場合もあるでしょう。当事者や当事者家族、支援者から見れば、「配慮は当然」と思うことかもしれませんが、配慮する側も等しく心を持つ人間であることは、忘れてはならないことだと思います。
 

教室には学ぶ側だけが存在しているわけではありません。共に学ぶ仕組みを作ることで学ぶ側の意欲が引き出されるのであれば、教える側の意欲を引き出すことを同時に喚起することも必要でしょう。それが真の意味でのインクルーシブ教育なのかもしれません。
 

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この記事を書いた人

佐々木 一成

1985年福岡市生まれ。生まれつき両足と右手に障害がある。障害者でありながら、健常者の世界でずっと生きてきた経験を生かし、「健常者の世界と障害者の世界を翻訳する」ことがミッション。過去は水泳でパラリンピックを目指し、今はシッティングバレーで目指している。障害者目線からの障害者雇用支援、障害者アスリート目線からの障害者スポーツ広報活動に力を入れるなど、当事者を意識した活動を行っている。2013年3月、Plus-handicapを立ち上げ、精力的に取材を行うなど、生きづらさの研究に余念がない。