ルワンダで障害者支援を行う「ワンラブ・プロジェクト」ー「ルワンダの話を聞く会」レポートー

2015年7月24日、東京都大田区にある大田区障害者総合支援センター さぽーとぴあにて「ルワンダの話を聞く会」が開催されました。
 

登壇したのは、アフリカ・ルワンダから訪日中のルダシングワ夫妻。夫のガテラ・ルダシングワ・エマニュエルさんはルワンダ生まれ。幼いころの治療ミスで右足が麻痺し、障害者施設で育ちました。妻のルダシングワ(吉田)真美さんは、神奈川県生まれ。日本での会社勤めの後、1989年にケニアのスワヒリ語学校に留学し、ガテラさんと出会いました。
 

国民の多くが犠牲になった虐殺の歴史を抱えるルワンダ。ガテラさんから、虐殺やルワンダの障害者の現状を聞いた真美さんは、義肢装具士になることを決意。日本の義肢製作所に弟子入りして技術を習得したのち、1996年に日本とルワンダの共同NGO「ムリンディ・ジャパン・ワンラブ・プロジェクト」を設立しました。以来約20年間ルワンダで(07年からは隣国ブルンジでも)障害者支援を行っています。
 

ルワンダの暮らしやワンラブ・プロジェクトの活動内容、今後の展望など、簡単にではありますが、当日のお二人のお話をレポートします。
 

会場には子どもから仕事帰りの会社員まで、多くの人が集まった
会場には子どもから仕事帰りの会社員まで、多くの人が集まった

 

ルワンダとは?

 

まずはお二人の活動国、ルワンダについての紹介から講演会はスタートしました。
 

ルワンダ共和国は、アフリカ大陸の中部に位置する国。ブルンジ、コンゴ、ウガンダ、タンザニアと国境を接する小さな国で、人口は約1,200万人。農業を主産業としており、芋やキャッサバ、豆などを栽培しています。ほぼ赤道直下にありながら標高が高いため、それほど暑くありません(年間を通して一日の気温は15〜30℃)。小高い丘と山が多いことから「千の丘の国The Land of A Thousand Hills」と呼ばれる緑が美しい国です。
 

しかしながら、「ルワンダ」と耳にしたときに、こうした美しい風景ではなく「虐殺」という言葉を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。
 

3ヶ月で100万人以上が虐殺された

 

1994年、ルワンダではツチ族とフツ族穏健派に対するジェノサイドが勃発。約3ヶ月で100万人以上の人が殺されました。
 

「ルワンダ虐殺と言うと、1994年から始まったと思う人が多いかもしれませんが、実は民族の対立はもっと昔からありました」(ガテラさん)

 

ベルギーの植民地下にあった1930年代。植民地政策により、国民は「ツチ族」「フツ族」「トゥワ族」に分けられ、民族の記された身分証明書が発行されました。その政策は、教育現場にも持ち込まれます。
 

「ベルギーは、それまでルワンダになかった学校を作ってくれました。だけど、そこで民族を分ける教育をしたんです。人は民族によって異なるという教えが結果的に虐殺につながった。『はじめ』が悪かったために、『おわり』も最悪になってしまったんです」(ガテラさん)

 

(写真左)ガテラさんの通訳を行いながら話をしてくれた真美さん(写真右)ガテラさん
(写真左)ガテラさんの通訳を行いながら話をしてくれた真美さん(写真右)ガテラさん

 

義肢装具を無償で提供

 

隣人が隣人を殺したルワンダ虐殺では、ナタや斧といった家庭にあるものが武器になりました。結果、手足を失うなど、障害が残った人が数多くいます。こうした人たちをはじめ、病気、事故などで障害を負った人たちの支援を20年間行ってきたのが、ガテラさんと真美さんが立ち上げた「ワンラブ・プロジェクト」。障害者ひとりひとりに合わせた義肢装具や、杖、車椅子を無償で提供しています。
 

「地方に住んでいる障害者など、義肢製作所まで来られない人のために巡回診療も行っています。まず、ラジオで巡回診療の日時と場所をアナウンスします。そうすると当日たくさんの人が集まってくれるので、そこで義肢製作のための採寸や型とりをします。ボロボロになった義足を使い続けている人も多いです」(真美さん)

 

装具などを無償で提供するのは、障害者の多くが装具を買うための十分な収入がないから。しかし、装具を作るのには当然お金がかかります。その費用は個人の寄付や、ワンラブ・プロジェクトで運営するレストランやゲストハウスの収入でなんとか賄っているそうです。ただ、成長が早く毎年作り変えなければならない子どもの義肢を作る余裕はなく、政府にも支援を呼びかけていますが、条件付きの回答が多く十分とは言えません。
 

巡回診療での採寸の様子(ワンラブ・プロジェクトHPより)
巡回診療での採寸の様子(ワンラブ・プロジェクトHPより)

 

これからのルワンダは若い人たちが作る

 

「ワンラブ・プロジェクト」という名前には、国民が民族に分かれて殺しあった悲劇を繰り返さないために、「ひとつになって愛しあおう」という願いが込められています。
 

「現在のルワンダに民族はありません。新しい身分証には民族を記す欄はなくなりました。今では虐殺を知らない世代も増えています。二度と同じことを繰り返さないために、彼らに虐殺の歴史を伝えていかなければなりません。若い人たちが過去のことを知った上で、新生ルワンダを作っていくのです」(ガテラさん)

 

世代を超えて虐殺の歴史を語り継ぎ、若者が先頭に立って新しい国を作る。途方もなく悲惨な虐殺の歴史を消すことはできませんが、殺した者と殺された者が共に新しい国を作っていくという確固たる意志と、未来への希望もまた、ルワンダにはあるのだと感じました。
 

本当の自立を目指して

 

障害をもつ人たちが、肉体的・精神的・経済的に自立できるよう、現在では大学やJICAと連携してパソコン教室を開くなど、就労支援や障害者スポーツの推進にも力を入れているワンラブ・プロジェクト。
 

「義足を作った人が、義足をつけずに街で物乞いをしている姿を見かけたことがあります。せっかく作ったのになぜ義足をはかないのか尋ねたところ、『好きで物乞いをしているのではない。それしかないからやっているのだ』という答えが返ってきました。義足を作るだけでは生活は変わらないと気付き、就労支援にも乗り出したんです」(真美さん)

 

今は、後継者育成にも力を入れており、ルワンダの技士が日本で研修を受けるプログラムなども実施。彼らが帰国後独立して工房を開くことで、障害者支援の輪が広がっています。
 

2000年シドニー五輪。義肢装具士として働いていた男性が、ルワンダ初のパラリンピック選手として出場。 パラリンピック委員会との交渉もワンラブ・プロジェクトが行った(ワンラブ・プロジェクトHPより)
2000年シドニー五輪。義肢装具士として働いていた男性が、ルワンダ初のパラリンピック選手として出場。
パラリンピック委員会との交渉もワンラブ・プロジェクトが行った(ワンラブ・プロジェクトHPより)

 

国境を超えた支援を

 

20年間活動を続けてきて、一番有り難かったのは「いろんな人との出会い」と語る真美さん。実際にルワンダの義肢製作所を訪れてくれた日本人小学生は、現地の小学生とサッカーで交流したあと、「自分たちは恵まれている。日本のサッカーコートは綺麗だけど、ルワンダのコートは石ころだらけで凸凹だった」と話したそう。まったく異なる価値観や社会で暮らす人たちがいることを子どもの頃に体感するのは、とても大事なことだと真美さんは話します。ガテラさんも、是非一度ルワンダに来てみてほしいと会場に語りかけ、お二人のお話は終わりました。
 

金銭的な支援はもちろんですが、義足や車椅子の材料、パソコン講師など、人的・物的支援も必要としているとのこと。活動の詳しい内容や支援の方法などについては、是非一度ワンラブ・プロジェクトのHPをご覧になってみてください。ルワンダでの生活の様子を伝えた真美さんのブログなど、楽しくためになる情報も満載です。
 

普段日本に暮らしていると、遠く離れたルワンダのことを思うことは正直少ないですが、こうして活動されている方々を知ると、継続して関心を持ち続けられるように思います。また、材料や資金が十分でなくとも、多くの工夫と情熱で活動を続けるお二人と現地スタッフのタフさに、自分たちにもできることがたくさんあるではないか、と自らを省みる機会になりました。世界では争いが絶えませんが、こうした支援の輪が国境を超えて広がることを望みます。
 

最後は、会を主催した志村陽子さんが参加するゴスペルサークル「シューブ」さんより、お二人への歌のプレゼントがあり、拍手で閉会となりました。
 

※なお、ガテラさんは2020年の東京パラリンピックに、車椅子マラソンでの出場を目指しているとのこと。ルワンダには競技用車椅子がないため、寄付をしていただける方などの情報を求めているとのことです。

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この記事を書いた人

木村奈緒

1988年生まれ。上智大学文学部新聞学科でジャーナリズムを専攻。大卒後メーカー勤務等を経て、現在は美学校やプラスハンディキャップで運営を手伝う傍ら、フリーランスとして文章執筆やイベント企画などを行う。美術家やノンフィクション作家に焦点をあてたイベント「〜ナイト」や、2005年に発生したJR福知山線脱線事故に関する展覧会「わたしたちのJR福知山線脱線事故ー事故から10年」展などを企画。行き当たりばったりで生きています。