障害者手帳がなければ障害者ではないのか?軽度な障害から起こる生きづらさ。

立命館大学産業社会学部2回生の鈴木歩と申します。つい先日まで5級の視覚障害(弱視)を有していた21歳の男子大学生です。
 

私は、先天性眼球振盪(しんとう)症という病状により、生まれつき健常者の人に比べて見えづらい生活を強いられてきました。両親の話によれば、発覚したのは三歳児検診の際。示された対象物を視認できなかったことが発端だといいます。
 

具体的な視力の数値は右目が0.1程度、左目が0.15~0.2といったところです。健常者の方でも裸眼であればこの程度の視力の方もいらっしゃいますが、私の場合はメガネやコンタクトレンズを用いても視力を矯正することができません。その結果として、細かい字や物が見づらい、遠くのものが見えないといった障害が発生します。また、まぶしさにもやや敏感かもしれません。視力の制限により、運転免許の取得はもちろん不可能です。ただ、私自身、この障害は教育以外における私生活においてはさほど問題はないと思っています。
 

たとえ自分がそう感じていても、社会の障害者に向ける視線は依然冷たいままです。それゆえ、私もわずか21年の間に様々な「生きづらさ」を感じながら生きてきました。そればかりか、つい最近にはさらなる「生きづらさ」を感じる体験をしたのです。弱視という中途半端すぎる障害を持って生まれたが故の体験です。
 

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先ほど記したとおり、私は自分の障害が教育以外の面でさほど問題だと感じたことはありません。私は教育を受ける過程で初めて自分の障害を自覚したとも言えます。小学校1年生のとき、まわりの子どもたちが黒板に書かれた事柄を板書している際に、私には黒板に書かれている内容を視認できませんでした。先生が何か書いているということは認識できても、肝心の文字はぼやけてよくわかりません。担任の先生は私の目のことについて理解してくださっていたので、黒板が見える距離まで机を移動させてくださったり、隣の席の子に私にノートを見せてあげるよう頼んでくださったりしました。当時の私はこうして不足を補うことができていましたが、それと同時に、自分が普通の小学生ではないということを感じたのでした。
 

私は、保育園から高校の途中まで一般の教育機関で過ごしました。保育園に通っていたころは障害のことなど気にも留めませんでしたし、小学校では先生や友人たちの助けがありました。中学校に至っても、私が生まれたのは山形県の小さな街で学校の数が少なく、小学校の友人たちは皆同じ中学へ入学したため、まわりの環境が変わることなく友人たちの助けに甘んじていました。
 

ところが、高校に入学してから転機が訪れました。高校は隣町の県立高校に入学したのですが、自分は視力が低いということをまわりに伝える機会をなかなか見出せず、自ら壁を作るようになっていきました。中学までとは違って知り合いも極端に減り、誰かに頼るという勇気さえなくなりました。授業の進度も速く、板書をするのも一苦労でしたが、特に苦痛だったのが体育の球技の時間でした。視覚障害者にとって一般の球技ほど不得手なスポーツはありません。ソフトボールやバレーボールなどの集団競技では、ミスを連発して周囲に咎められることもしばしば、ただ、特別扱いされたくなかった私は、皆と同じように学校生活を送ることを選んだのでした。
 

我慢に我慢を重ねているとやはり心身に影響が出るようで、1年生の終盤には体調を崩して学校を休みがちになりました。やがて、2年に進級してすぐ不登校になったのです。担任の先生は熱心に私を説得し、両親も必死になって学校に連れて行こうとするのですが、学校のすぐそばまで行くと、周囲を気にして萎縮し怯える私自身の姿が脳裏に浮かび、心臓が絞めつけられる感覚に陥り、吐き気を催すのでした。その度に「消えてなくなりたい」と思うようになり、あまつさえ死ぬことすら考えました。しかし、死を覚悟するほどの器など私にはありませんでした。夜中にお腹が減ってキッチンを物色するたびに、包丁が入った棚に目をやるのですが、死への恐怖が一気に押し寄せてきて、結局一度も棚に触れることなどできませんでした。どこまでも臆病で弱い自分がそこにいました。
 

やっとの思いで助けを求めたのはやはり両親でした。死のうと思ったこと、怖くて死ねなかったことを打ち明けると、母は優しく微笑んで「学校なんて行かなくていい」と言い、父は無言でうなずき不登校を受け入れてくれたのです。気持ちを打ち明けると体がふっと軽くなって、知らず知らずのうちに嗚咽を漏らしていました。その後、学校側も私と両親の意向を汲んだようで、休学という形をとらせていただきました。そして、この年の夏に、母から東京にある盲学校の存在を教えてもらったのでした。
 

翌年3月、地元の高校を中退し、東京都文京区の筑波大学附属視覚特別支援学校高等部の第1学年へ再入学しました。特別支援教育を受けられるというメリットがあるのはもちろん、知り合いのいない土地で気兼ねなく過ごしたいと考えていた私にとっては魅力的な選択でした。同校での3年間は、今までの自分にないものを身に付けるため、生徒会活動や寮の自治活動、課外活動等に明け暮れました。入学前の自分と比較すれば大きく成長したことは確かですが、実は盲学校の生徒としては「見えすぎる」というジレンマを抱えていたりもしたのです。盲学校入学と同時に身体障害者手帳を取得したのですが、障害が自分のアイデンティティであることについて考え始めたのもこのころです。
 

ジグソーパズル
 

盲学校卒業後は縁あって立命館大学に入学し、現在はマイノリティが参加しやすいコミュニティをつくり上げるべく、社会環境や福祉について学んでいます。また本学は障害学生支援に精力的に取り組んでおり、私自身も課外活動として障害者と健常者がコミュニケーションをとりやすい環境づくりを目指す団体に所属し、啓発活動に励んできました。そんな矢先ー障害が自分のアイデンティティであることを認め、何かに役立てられればと考え始めた矢先に、事件は起こったのです。
 

今年4月、障害者手帳の更新が行政にて棄却されたのです。理由は、更新のための申請書類として提出した視力検査の結果が以前より若干良くなっていたためでした。手帳交付の基準としては視力が0.2より低いことが基準になっているようです。しかし、視力というのは気まぐれで、その日の体調や周辺環境などにも左右されるというのです。念のため再検査も受けましたが結果が覆ることはありませんでした。よって私は今年4月末をもって法的な障害者から外れることになります。
 

今回私の検査を担当してくださった先生は、これは喜ばしいことであるという捉え方をされました。法的な障害者でなくなることが喜ばしいか否か、今の私には判断しかねることです。ただ、この出来事により障害者手帳が所持できなくなるということに対するショックはさほど大きくないのです。私よりも両親のほうが憤慨していますが、私はむしろ、障害とは何か、障害者手帳の意義とは何か、そして福祉はどうあるべきか考えるきっかけになりました。今は毎日のように思考を張り巡らせています。障害者手帳がなければ障害者ではないというのは間違った考えであると思うのです。現に障害者手帳が無くても、私の視力は大幅に回復したわけではなく、今までと変わらぬ障害があってそれを受け入れて生きていくのですから。
 

障害者手帳を失うことによって、健常者と障害者の狭間で生きるという私の人生はより複雑で不明瞭なものとなっていくでしょう。しかし、このような数奇な人間も世の中にいるのだということを一人でも多くの人に知っていただきたいと思うのです。そして、たとえ法や制度が変わらずとも、人がより多角的視点から他者を見ることができるような社会になっていくことを願うのです。
 

このライターの執筆記事

  1. 障害者手帳がなければ障害者ではないのか?障害者手帳の更新棄却、そして再発行を経て。
  2. 障害者手帳がなければ障害者ではないのか?軽度な障害から起こる生きづらさ。