「僕、黒沢っていうんですけど、苗字が5回変わってるんですよ。オフクロがモテるんですわ。こんな経験なかなかできないでしょ?」
そう笑って話す、NPO法人若者就職支援協会の代表、黒沢一樹さん。複雑な家庭環境を背景に中学卒業後に働き始め、17歳で渡ったインドネシアでは自分の命に保険金をかけられ、勤めていた会社が支払先だった、という過去を持つ黒沢さんに「僕の経歴は不幸のデパート」と笑い飛ばせるリアルを探るべく、話を聞いてみました。
本当のお父さんだと思ってたひとが違ってたんですよ。
黒沢 「物心ついたときにお父さんだと思っていた、今となっては信じていたのほうが正解かもしれないけれど、そのお父さんが死んで、あの人は本当のお父さんではないとオフクロに言われたとき、僕の人生って大変なのかもしれないなと思いました。小学生の頃ですけど。」
こう笑って言いのける黒沢さんには4人の父親がいるらしく、上のコメントにあるのは2番目のお父さん。実の父親は生きているか死んでいるのかも分からないそう。大変だったのは3番目のお父さんのようで、働かずに飲んでは暴れ、黒沢さん自身も何度も殴られ蹴られ、首を絞められてという生活だったそうで。
黒沢 「3番目の父は大変でした。働かないし、母が稼いできたお金はお酒に消えるし。冷蔵庫には何もなくて、下の妹とじゃんけんで負けたほうが近所の店から食べ物を万引きしてくるような生活でした。現行犯じゃないし、時効だから言えちゃうんですけどね(笑)。」
今、このような状況がニュースで流れると、警察は何をしてるんだ?児童相談所は何をしてるんだ?という話になりそうですが。
黒沢 「児童相談所の担当者ってズルいんですよね。泣いている妹とかにアタマをヨシヨシしながら、家に帰りたいよね?って優しい声で言うんです。そりゃ「うん」って答えますよ。妹にそう言われたら僕は連れて帰って守るしかなくなる。せっかく保護されたのにまた帰ることになる。結果、僕は父から包丁で刺される(笑)。痛いんですよ。そんな状態でした。」
高校は入学式だけ出ました。経歴は中卒です。
黒沢 「血がつながってるつながっていないは関係なく、僕は10人兄弟なんですけど、高校行くにもお金がかかるし、下の兄弟もたくさんいて、高校進学のタイミングでオフクロにもいろいろあって。当時の状況だと僕が働くしかなかったんです。だから高校は入学式だけ出て退学しました。あまりにも貧乏で、見かねた中学校の先生が塾の費用を繕ってくれて通塾させてくれて。高校受かったんですけど、その期待に応えられなかったですね。そこは心残りなんです。」
「中卒のカリスマ」という別名をもつ黒沢さんは、若者就職支援協会という団体の代表を務め、「ネガポジ就活術」という本を書いていらっしゃいます。キャリア教育という切り口から、最近では高校で講義を行っていることもあるといいます。そこで語られるメッセージとは。
黒沢 「そもそも中卒の僕が高校で話していることが不思議なんですが(笑)、最近は定時制高校で話すことが多くて。そこでは”学校に行かなかったら孤独になるよ”ということを話しています。僕は中卒で社会に出てしまっているんで、友達や仲間を作ることにすごく困った。稼がなきゃいけなかったからがむしゃらに仕事してたので、孤独感を感じる暇は実は少なかったけど、孤独は辛い。自殺したい、クスリ打ちたいとかって平気で起こりますから。無条件で近くに人がいる、学校っていう環境は大切だよ、だから学校辞めるなよっていう話をしています。」
インドネシアではすれ違う人すべてがヒットマンに見えた。
50社もの転職経験、2度の事業失敗があるという黒沢さんにとって、一番過酷な環境は17歳のときに行ったインドネシアにありました。
黒沢 「17歳のとき、お世話になった先輩に連れられてインドネシアで仕事をしていました。たまたま事務所の中から聞こえてきた会話から自分に1000万円の生命保険がかけられていて、その保険金の支払先が会社だということを聞いちゃったんです。当時はそんな形態でかけられる保険があったようで。町中で話しかけられる度にヒヤヒヤ。周りはヒットマンにしか見えない状況だったので、日本に逃げ帰ってきました。」
インドネシアから黒沢さんが逃げ帰ってきた時代は、ちょうどスハルト政権が終焉を迎え、治安が悪化していた時代。それこそ1万円渡せば、人1人を殺すことも訳がないような人もいるような時代でした。わざわざそのタイミングでインドネシアに行く必要もなかったように感じますが。
黒沢 「中卒で仕事をする、それも大金を稼ぎたいとなると、どうしてもヤクザと関わるようなものになってしまうんです。ヤクザ事務所に入り浸っていた僕をその世界から抜け出させてくれた先輩からの話だったので断れなかった。むしろ一緒にやりましょうという気持ちだった。浅はかだったと思いますが、自分の存在を受け入れ、認めてくれるのって嬉しかったんですよ。何も疑うことなくインドネシアに行きましたね。実際、稼げていましたし。」
黒沢 「一般的な経歴(注:高校まで出て進学、就職など)を歩んできていないひとって、自分のことを分かってくれないという孤独感を感じていることが多い。だから自分のことを受け入れてくれるひとを信じてしまうんです。今、僕がやっている若者就職支援協会などでは、働けない、生活できないという若者の話を聞くことから始めています。自分をいい大人だとは思ってませんけど、少なくとも働けるように導くための支援はやっているので、お前にだったら話してもいいかなと思われるようになりたいなと。」
不幸のデパート流、数多いトラブルを超えていくコツ
「僕は不幸のデパートですから、だいたい何でも取り揃えてますよ」と黒沢さんは自身を語るときに笑顔で話します。10代の頃に突発的右半身麻痺が起こり、視力も急低下。今でも右手に麻痺が残っているような状態まで持ち合わせている”不幸のデパート”流の数多いトラブルを超えていくコツとは。
黒沢 「母がヌードダンサーをやっていて、小さい頃に母の同僚やお客さんにかわいがってもらって、お小遣いもらってたんですよ。ニコニコしてればお金がもらえた。ここが原点で、人なつっこさが僕の武器なんです。今思うと、困ったら誰かが助けてくれた。差し伸べてくれる手をまずは握ってみることじゃないですか。ただ、しっかりと自分自身の頭でその手の活かし方を考えることが大切ですが。僕は何も考えずに手を握ったから、2社も潰して、50回も仕事変えた。反省してます(笑)。」
8年後に上場企業を作り、その余剰金で、貧困層向けの食べる・住む・学ぶにお金がかからない施設を作ろうとしている黒沢さん。話を聞きながら一瞬、ホントにそんな世界があるの?と疑ってしまいたくなるほどの過去なのですが、その疑いこそが偏見に、あるいは無知・無関心につながり、認識に邪魔をしているのかもしれません。