障害者と健常者のコミュニケーションがうまくいかない理由とその改善提案。

「障害者として接してほしい」というひと。
「健常者と同じように接してほしい」というひと。
 

障害者を大きく2つに分けるならば、こんな分け方ができるかもしれません。どちらがいい、悪いというわけではなく、障害当事者本人の志向の問題です。障害が軽いながらも障害者として接してほしいひともいれば、障害が重いながらも健常者と同じように接してほしいひともいます。障害の種類や程度によって明確に整理されるものではなく、障害を負った原因によって整理されるわけでもありません。障害者一人ひとりの意識によって変わるものです。
 

5月11日のPlus-handicapコラム「今日から僕は「障害者(仮)」として生きる。障害者と健常者の狭間で。」の挿絵より
5月11日のPlus-handicapコラム「今日から僕は「障害者(仮)」として生きる。障害者と健常者の狭間で。」の挿絵より

 

同じように考えると、障害者の周囲にいる健常者側にも2種類いると言えるのかもしれません。
 

「障害者を障害者として接する」というひと。
「障害者を健常者と同じように接する」というひと。
 

困ったことがあったらなにか手伝おう。配慮できることがあったら何でも言ってね。大変そうだなあ。そういった気持ちや言葉は、「障害者を障害者として接する」という側にいる証のひとつです。「障害があるとか関係ない」というひともいることはいますが、少数派だなという印象を拭いきれません。これもどちらがいい、悪いというわけではなく、一人ひとりの価値観に背景があるものです。
 

私自身、両足と右手が生まれつき不自由でありながらも、小学校から始まる学生の期間、そして社会人になってからも、ずっと健常者の世界で生きてきました。障害者アスリートの世界を除いては、特別支援学校や障害者の就労支援機関、自立支援などの障害者福祉サービスといった障害者のコミュニティに属したことがほとんどないので、私は「健常者と同じように扱ってほしい」障害者ですし、周囲の友人たちは「私を障害者として接したことがほとんどない」メンバーです。障害者として生きている人間としてはマイノリティだと思います。だからこそ、私自身は「助けを差し伸べられること」が嫌いであり、障害者としての合理的配慮を必要としないタイプです。
 

社会人になって福岡から上京し、会社の先輩に「障害が理由で困っていることがあったら何でも言ってね」と言われたとき、何とも言えない怒りが込み上げてきたことを思い出します。ちょうど同じ頃、同期から「障害者と初めて会ったんだよね」と言われ、「これまで何か大変だったことってあるの?」と聞かれたときには殺意すら覚えました。幸か不幸か、福岡にいる時代は、「健常者と同じように接してほしい」私自身と「健常者と同じように扱う」という周囲の環境が一致していたのです。その裏返しとして、東京に出てきて遭遇した「健常者と同じように接してほしい」タイプの私に対して「障害者として接された」ときには、今まで経験したことがない感情の起伏があったのです。
 

これは逆も同じことが言えます。障害者雇用を例にとると「障害者として接してほしい」という障害者が、勤め先から「健常者と同じことを求められる」「障害者であるが故に必要な配慮が為されない」という状態に陥ったならば、職場に対する不信感やストレスが高まります。離職理由の上位項目にも「職場での配慮不足」は挙がりますが、「障害者として接してほしい」は「働くうえで配慮が欲しい」とほぼ同意見なので、職場から「健常者と同じように扱われている」という気持ち、「障害者として考えられていない(存在承認されていない)」という失望につながるのです。
 

20150706コラム
 

障害者福祉に携わるひとでなければ、障害者と接する機会が発生するのは家族か友人、職場のいずれかがほとんどです。自分から興味を示して障害者のいる世界に飛び込まない限りは、変えることができない人間関係の中で発生します。それらの場面で、障害者と円滑な人間関係・よりよい信頼関係を築いていくためには、障害者側がどのように接してほしいのか、健常者側がどのように接していきたいのかという点をすり合わせないことには始まりません。逆説的に言えば、そのすり合わせがうまくいけば、健常者と障害者という観点でのコミュニケーション上のトラブルは起きないということです。
 

「障害者として接してほしい」&「障害者として接する」が確率論的には合致しやすいと考えられますが、人間同士、確率論だけでコミュニケーションがうまくいくのであれば、コミュ障なんて存在しません。障害を負った原因や過去によっても様々あり、障害を受け容れられていない・被害者意識が強いという場合にはかえって「障害者として接しないほうがいい」こともありますし、障害者の精神状態が不安定ならば、どう接してほしいのかが日替わりなことも想定されます。「障害者として接したほうがいいかな」なんて質問は野暮すぎますし、察してくれと返されること請け合いです。
 

ここを抜ければ、性格や価値観、考え方といった各個人間の問題。その際、障害に由来しているであろう様々な発言が出てくることはありますが、互いの発言が障害が背景となっている意見なのか否か、障害に対する思い込み・障害を言い訳とした意見ではないかといったことを整理すれば、ゴールは見えてきます。状況によっては「障害者として接してほしい」という状態から「健常者と同じように接してほしい」という状態に変わることもあります(多くはこの流れであり逆は少ない)。ただ、このときには打診があることが多いので、その折に判断すればスムーズですが、個人的には「障害者として接してほしい」と生きてきた障害者が健常者の世界の論理で生きることは簡単なものではないと思います。
 

普通の人間関係だとここまで大変じゃないのになと思うかもしれませんが、その意見に対しては2つの観点から回答できます。普通の人間関係も障害者とのコミュニケーションとは違うけれど、それはそれでめんどくさいよということ。そして、障害者が700万人いることを考えれば、自分が障害者になる可能性もあるので、大変だなと感じすぎると自分の首を絞めてしまうことにもなるよということの2つです。
 

内緒
 

ここまでは健常者側に対する改善提案に近いものとなりましたが、コミュニケーションが対等な関係のもとに生まれるものであるならば、健常者側に改善提案を求めるだけでは進まないこともあると感じます。歴史を紐解けば、健常者で構成されてきた社会に責任を委ねたくなることも考えられますが、未来にも生まれてくるであろう障害者の後輩を思うと、よりよい関係性を築くための自助努力も、私たち障害者側にとっては必要な気がします。
 

記事を通して障害者と書きましたが、該当する障害者の多くは身体障害者、特に軽度のひとたちでしょう。重度身体・知的・精神といった障害者の場合は、該当しないことも考えられます。障害者と言われたときにイメージが浮かびやすいのが身体障害者であり、物申せる障害者の数が多いのが身体障害者であることを考えれば、障害者と健常者の間がスムーズにコミュニケーションを取れるようになるための旗手とならなくてはいけないのが身体障害者なのだと思います。
 

そのためには「健常者と同じように接してほしい」という考え方をもつひとが増えることが重要なのではないでしょうか。もちろん、できる範囲のひとだけで構いませんが、その考え方へチャレンジしてみる。失敗すれば戻ればいいだけの話です。そこにリスクを感じるひとは動かなくてもいいと思います。もし、自分はリスクを負わないのであれば、リスクを負ってチャレンジするひとを応援してほしいなとは思います。
 

身体障害者の一員である私の目線から見ても、ここ10年20年で街のバリアフリー設備は随分と増えましたし、障害者雇用の制度の充実やオフィス環境の整備もだいぶ進んでいます。もちろん、満足できるかどうかはそれぞれの判断に従わざるを得ないでしょう。健常者の世界で生きるには少し頑張る必要はありますが、「少し」程度で済む障害者(ここは身体だけに限らない)は増えてきていますし、「少し」程度で済む障害者は、「だいぶ」必要な障害者のために道を切り拓いていくことを考える時期が来ているのかもしれません。
 

ただ、ふと思うことは、障害者と健常者という壁は、何が理由なんだろうということ。制度上は手帳の有無ですが、これだけ様々な生きづらさが生まれている時代、その定義はますます不安定なものとなりえるのではないでしょうか。いつまでも障害者オンリーの問題点として考えるのは、ナンセンスなのかもしれません。
 

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この記事を書いた人

佐々木 一成

1985年福岡市生まれ。生まれつき両足と右手に障害がある。障害者でありながら、健常者の世界でずっと生きてきた経験を生かし、「健常者の世界と障害者の世界を翻訳する」ことがミッション。過去は水泳でパラリンピックを目指し、今はシッティングバレーで目指している。障害者目線からの障害者雇用支援、障害者アスリート目線からの障害者スポーツ広報活動に力を入れるなど、当事者を意識した活動を行っている。2013年3月、Plus-handicapを立ち上げ、精力的に取材を行うなど、生きづらさの研究に余念がない。