ヒザが曲げられないから、ジジイと酔っぱらいによく絡まれます

「ヒザを曲げられない」という障害を持っている限り、電車のイスに座ると、足が通路側に投げ出されることは防げません。足を通路にどーんと出していれば、つまずく、ズボンの裾を靴裏でこする、不愉快な気持ちにさせるといったことを誘発します。私は障害が理由で「仕方なく」足を投げ出しているのですが、相手からすると「わざと」足を投げ出しているように見えています。この不毛な戦いを生まれてこのかた30年近く繰り返していると、様々なトラブルに巻き込まれます。
 

こういう風に座ってるほうがよくないんですけども。
こういう風に座ってるほうがよくないんですけども。

 

過去の記事(優先席の前での正しい立ち方!?)でも取り上げたことがありますが、酔っぱらいに絡まれることはしょっちゅうです。本日は、久しぶりにジジイ、失礼、オジサンに絡まれたので、ご紹介したいと思います。
 

今日のケースは初体験。いつもは席に座っているときにトラブルが発生するのですが、今日は電車の降り際でした。足が不自由な人間にとって、ホームと電車の間の距離はなかなか苦労するものです。特に満員電車などで降りることを急かされる場合は、ホームと電車の間の空間にストンと落ちてしまうことがあります。私自身、初めて東京のラッシュを経験した際、義足を履いている右足だけストンと落ちた経験があります。当時は恥ずかしさ以上にスーツが破れた苛立ちのほうが強かったのですが。
 

ギュウギュウ詰めではない程度の満員電車に乗っていた私は、その駅は降りる駅ではなかったのですが、ドア前に立っていたこともあり、降りるひとのために一度ホームに降りようと考えていました。ただ、運悪く、私が降りるドアの前のホームとの距離が少し開いており、ホームに踏み出したいほうの足である、義足を履いている右足を一歩踏み出すのに少しだけ手間取りました。時間にして2秒ほどだと思います。個人的には2秒かかっているあたりに自責の念がよぎります。
 

「どけ!邪魔だ!」
 

ジジイ、失礼、オジサンが急に怒鳴りました。怒鳴ると同時に私の背中は押されました。おそらく、2時間ドラマで駅のホームから電車が来るタイミングで突き落とそうとするときの犯人が相手の背中を押す力は最低これくらい必要だろうなというくらいの力で勢いよく押されました。身のこなしのせいか、何事もなくホームに着地したことがさらに状況を悪化させたのですが、「なぜさっさと降りないんだ」とジジイ(もう修正しません)から文句を垂れられる始末。久しぶりにキレました。ホームで文句を垂れなくてもいいでしょうに。
 

「足が悪いんですよ。ズボンめくって見せますよ(裾をめくる)。」
 

何度もこのような場面を経験しているため、まず足を見せること、相手がサラリーマンだったら名刺をもらってその場で相手の会社に電話をかけること、酔っぱらいの場合は緊急停車ボタンを押してでも駅員を呼ぶことと、それぞれ自分を守るための策は持ち合わせていますが(すべて経験済み)、だいたいは足を見せれば解決します。今回もジジイは睨みを利かせながら詫びることもなくその場を去っていきました。
 

こんな足なので、ヒザが曲がらず、義足を履いているのです(義足の型を採っているところ)。
こんな足なので、ヒザが曲がらず、義足を履いているのです(義足の型を採っているところ)。

 

障害者の中でも、先天性のいわゆる奇形の足をもっていて、ヒザが曲がらない(固定されている)義足を履いている私はマイノリティの中でもマイノリティです。他者から見れば、出会うはずのない相手クラスの私。その事実を個人的に認識しているので、少々のトラブルでは目くじらを立てなくなりました。「ああ、いつものね」程度のことです。今回ばかりはこれ見よがしに暴言を吐いてきたので、普段は紳士的な私の逆鱗に触れたのですが。
 

帰りの電車で、真逆のことが起こります。気だての良さそうな女性が、電車がホームに着く前に「すみません。降りますので前を通ります。」と一言発したのです。言い終えると同時に電車のドアが開きました。私はジジイに因縁つけられた場所と同じような位置に偶然いたのですが、この一言があったおかげで、私も私の周囲にいたひとも「どうぞ」という一声が生まれました。また、この女性が素晴らしいなと思ったところは、ドアが開いた途端に動き出すのではなく、ドアが開いて一呼吸置いてから動き出したところです。
 

主観的事実(自分の経験)だけから見ると、ジジイと酔っぱらいにしか絡まれたことはなく、若手サラリーマンや学生からは「足、どうかされたんですか?」と聞かれることもあります。これは、「その足、すごくジャマなんですけど」を優しく言い換えただけかもしれませんが。ただ、相手を直接的に罵るのか、間接的に尋ねるのかという差は大きく、その気遣いは若者のほうが長けているようにも感じます。「歩き方変ね、どうしたのかしらね」と聞こえるように話していたり、じろーっと足元を見てきたりするのはオバサマ方の特徴です(これも主観的事実のみの話で根拠に乏しいですが1年以内に経験したことです)。
 

バリアフリーやユニバーサルデザインといったハード面への取り組みは進んでいますし、評価されるべきことだと思いますが、結局のところ、重要なのはソフト面。コミュニケーションの部分です。障害者理解だ、差別解消だなどと文言を並び立てるのも大切ですが、障害の有無に関わらず、相手を慮る気持ちがあるかないかで、社会の生きやすさは随分と変わると思います。無理解ではなく無関心。相手目線がなく自己中心的。ここに真の問題があるような気がしてなりません。

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この記事を書いた人

佐々木 一成

1985年福岡市生まれ。生まれつき両足と右手に障害がある。障害者でありながら、健常者の世界でずっと生きてきた経験を生かし、「健常者の世界と障害者の世界を翻訳する」ことがミッション。過去は水泳でパラリンピックを目指し、今はシッティングバレーで目指している。障害者目線からの障害者雇用支援、障害者アスリート目線からの障害者スポーツ広報活動に力を入れるなど、当事者を意識した活動を行っている。2013年3月、Plus-handicapを立ち上げ、精力的に取材を行うなど、生きづらさの研究に余念がない。