痛みに堪え切れず離婚を選ぶ【脳脊髄液減少症】

●出会いと別れ
 

間もなく私の唯一の理解者で大切な人と離れます。この判断が正解なのか、症状が変化している今、この選択が最善なのかも分かりません。2006年脳脊髄液減少症と診断され、ブラッドパッチ治療(脊髄に自らの血液数十mlを注入)をし、翌年、再びブラッドパッチ治療。そして今夏7年ぶりに同治療を予定しています。病気が発覚した頃、長年お付き合いしていた女性と別れ、その後も幾人かの人に病気を理解されず、いつも怠けている、いつもやる気がない、いつもムスッとしていると思われながら短期間でのお別れが続いていました。
 

脳脊髄液減少症とは
パッと見では分からない内部に障害を抱えた病気というより脊髄の怪我みたいなもの。何らかの要因で脊髄に穴が開き、そこから髄液が漏れ出し、脳が下垂することによって十人十色のあらゆる症状を引き起こす。私は、絶え間ない激痛が主たる症状。将来を悲観し自ら離婚を申し出たぐらいハードなもの。

 

nouseki_140714
 

●この先は結婚せずに一人で生きていこう
 

真剣に悩み、こう決めた後に、素敵な女性と出会いました。それから6年半、痛みで熟睡できない日々が続き、幾度となく挫けていた私を献身的に支えてくれました。結果として経済的にも支えられました。出会った頃は療養中で無職。再就職しても結婚する前にまた退職。ひどい時は1日働いて2~3日休む。稼ぎは妻の半分以下。離婚を前にそれらの支えを、今、肌で感じています。
 

●痛いから離婚って自分でもおかしいと思う
 

・痛みで自らのことだけで精一杯、相手のことを考える余力がない
・絶えずイライラしながら平静を装い、自暴自棄で何をしでかすか分からない時限爆弾を抱え、自分の性格がこんなだったのかと困惑する
・目前の仕事を前に思うように働けず、稼げないことを恥じていた
・妻へ精神的な負担を掛け続けることに自分が我慢できなくなった
・私のことを一番わかってくれているであろう人が苦しんでいた。
・その関係にも疲れ、悲しく、虚しくなっていた
 

昨春、痛みが著しく、記事では書けないような破壊的・破滅的な衝動に駆られていました。それを押し殺し続け、日々を過ごす、人に会う、働く。フラストレーションと痛みは急上昇。この春も同じことを繰り返し、もうこの生活は続けられないと思い至りました。家に帰れば無意識のうちに『ため息をつき、痛みでイライラし、不機嫌になる』ことも間々ある。装い続ける生き方が破たんしていたのだと思います。
 

その結果、一番大切にすべき存在を後回しにし、犠牲にしていました。なぜ、優先順位が逆になったのか。それは甘えと安心があったからでしょう。それすら受け入れてくれていたのに。1年半の間、4度離婚を切り出し、その都度なんとか進んでいこうと再スタートするも、5度目にして妻が根負け、正しくは受け入れてくれました。妻は、次に切り出されたら受け入れようと思っていたそうで。
 

私とつながりのある人が、この記事を読んでも理解しづらいと思います。日頃、多少だらしなく見えるぐらいで、普通にやり取りをしているので。痛みで離婚。これは意味が分からないのではないか。妻にも同じことを言われましたが、今はなんとなく伝わったかなと思います。
 

正直、この先生きていく自信はあまりない
ただ、もう失うものもないというのが今の心境
いまは希望も絶望もなく、ただ淡々と生きるのみ
世界から色が消え、少しの音のみが響いている
 

●脳脊髄液減少症者の妻の悩み
 

妻自身、今回のことで、周りから脳脊髄液減少症の夫を持つ妻として理解され難かったようです。この記事を書くにあたり、そういった視点を初めて知りました。私だけではなく、妻も同じように苦しんでいたのだと。これまで苦労を掛けて申し訳ないと思いつつも、そこまで具体的に妻の気持ちを汲むことができませんでした。妻からは今回のやりとりを通じて責められることはなく、感じていたことを伝えてくれました。その言葉と私が推測・解釈した彼女の気持ちを並べます。
 

「一番近くで夫のことを理解しようとしていた。でも痛みの辛さは想像できても体感できない。だから理解出来ていたとはいえない。」
 

「いつもだるそうにしているのが一緒にいて辛かった。身の置き場がなくなっていくようで。」
 

「昨年離婚話が持ち上がってから、一緒に居てもいない感じが続いていた。」
 

別の道を歩むことを決めた後、「あなたにとって私も、私にとってあなたも、ともに他に替えはない。他の人や仕事には替えがきいたのに、あなたはそっちを優先してしまった。」言い換えると、痛みを我慢し、時に隠しながら日常生活や仕事をだましだまし続けていくことで妻を犠牲にしていたのです。
 

「決断してくれれば、どこへでも一緒にいったのに。」彼女は勤務地や居住地を遠方に変え、転地療法も厭わないとまで言ってくれました。そこまで言ってくれたのに、現状から離れることに負い目を感じ、ゼロからスタートすることに不安を覚え、決断できませんでした。立ち上げたばかりの法人、ご縁で繋がった数多くの仕事、そして仲間など全て失ってしまうのではないかと。
 

過去10年の試行錯誤と思い通りに改善しない結果が、病気と前向きに向き合おうという気持ちを削ぎ、同時にこのまま何とかやっていけるのではないかという甘い想定も生まれていたのかもしれません。
 

●これまで家族のことをあえて触れなかった
 

これまでの記事の多くは、入稿前に妻に読んで貰っていました。その都度いつも違和感を覚えていたそうで、「記事を読むとあなた一人でやってきたように感じるけど、その裏での家族の苦悩が表現されていないことに違和感があった」と。指摘の通りだが、記事がより複雑になるのでカットしていました。
 

●妻からの言葉
 

「あなたが、いくら努力しても誰もあなたの痛みを分かることはできない。だから、自分で折り合いをつけて生きていかないといけない。」
 

「結果的に、私もあなたと過ごすことで絶えず気を遣っていた。今から思うとそれにも疲れてしまった。」
 

●「ありがとう」と「ごめんなさい」
 

・僕はただ痛みから解放されたい。
・妻には負担から解放されて欲しい。病気と正面から向き合うことを避けている自分に付き合い、これ以上苦しんでほしくない。
 

これは私の勝手な思い込みによるわがままが多分にあります。彼女はきっと最後まで付き合ってくれた。ただ、これ以上苦しみ、自暴自棄になっている不甲斐ない姿を見せ続けたくありませんでした。
 

最初から最後まで、ごめんと、ありがとう。
 

今回の惨状をみた友人からも、どんなに仲がよくても他者からの理解には限界がある、諦めの気持ちも必要と教えられ、「諦観」という言葉をはじめて知りました。こういった気持ちを少しでももってやっていけるかなと思っていますが、まぁ、難しそうだなと。
 

●この記事をなぜ書いたのか
 

理解し、支えて貰える存在が身近にありながらも、自分からそれを壊してしまう。また、その他の家族や友人の多くには、症状による苦しみを理解されず、それはそれで負担になっていた。毎日毎日「大丈夫?よくなった?元気そうだね!」と言われても体は痛い。最初のうちは「ぼちぼちやっているよ、まずまずだよ。」と応え、そのうち、「気遣ってくれてありがとう。」と応える。改善する見込みがない中、毎回声を掛けて貰ってもどう答えたらいいのか分からなくなっていました。もちろん、人の気持ちは嬉しいのですが。
 

『人と関わらずに生きていけないが、この病気でいる限り人と関わることは絶えず億劫でもある。』

 

同病者のtwitterをみると周囲の人はもとより、誰よりも近い家族からの理解不足、行き違いと、毎日関わるからこそ悩んでいる人が私を含め多数のようです。相手に非があるのではなく、自らの辛さで関わりが困難になる。これが外に出て関わる他人であればなおさらのこと。全ては目に見えない症状に起因します。
 

私が脳脊髄液減少症の記事を書き続けることで、病気を抱えた者の生きづらさを当事者はもとより、周囲の人に知って貰うことで、一人でも多くの患者が楽になればと思います。また、誰しもがなり得る、将来の脳脊髄液減少症予備軍の苦悩が緩和されれば幸いです。
 

最後に、ここまで私を支えてくれた妻に感謝を捧げてこの記事を終わります。
 

記事をシェア

この記事を書いた人

重光喬之

10年来、脳脊髄液減少症と向き合い、日本一元気な脳脊髄液減少症者として生きていこうと全力疾走をしてきたが、ここ最近の疼痛の悪化で二番手でもいいかなと思い始める。言葉と写真で、私のテーマを社会へ発信したいと思った矢先、plus-handicapのライターへ潜り込むことに成功。記事は、当事者目線での脳脊髄液減少症と、社会起業の対象である知的・発達障害児の育成現場での相互の学び(両育)、可能性や課題について取り上げる。趣味は、写真と蕎麦打ち。クラブミュージックをこよなく愛す。